日本のHIP HOP
現在、「高校生ラップ選手権」や「フリースタイルダンジョン」によって日本におけるラップ文化が独自の進化を遂げ、「フリースタイルバトル」が人気を博しているのは周知の通りです。
フリースタイルバトルだけでなく「ラップスタア誕生」で注目されたアーティストがリリースした音源でも界隈が盛り上がっています。
また、近年では日本のヒップホップ黎明期や冬の時代を生き抜いたベテランラッパーがリリースしたり、話題性抜群のコラボが続いたりとシーンから目が離せないですね。
今回の重要人物
- いとうせいこう
- Zeebra
- 般若
- Bad Hop
という4人(グループ)にフォーカスした内容になります。
また、「○○世代」という表現はこの講義のみに有効な表現であり、一般的な「○○世代」とズレが生じている可能性があることを予めご了承ください。
今回はそんな日本のヒップホップがどのようにしてこの現在の地位を獲得したのかというざっくりした歴史の講義になります。
日本のパイオニア
恐らく日本に初めてラップを持ち込んだであろう人物、小林克也や近田春夫などは現在ラジオDJやCMソングの制作などを主に行っています。
彼らは1980年代からのラップの先駆者です。
藤原ヒロシ、高木完らは共に「タイニー・パンクス」や「ザ・ハードコア・ボーイズ」を結成し、1985年~1986年にいとうせいこうとコラボし、リミックスやアルバムをリリースします。
JG’s
「JG’s」は大場次一、DJ honda、DJ Koo等が参画したクリエーターグループで主にダンスミュージックのリミックスを行っていました。
当時、エレクトロヒップホップというAfrika Bambaataaが作ったスタイルのヒップホップの曲をディスコでかけていました。
そこから派生してユーロビートやダンスチューンを得意としていました。
また、本場USのヒップホップ黎明期のブロックパーティー的なトースティング(サイドMC)をDJ Kooが行っていました。
このグループの面白い所は1980年代後期に現場っぽいミックスをリリースしていたことです。
ヒップホップに限らず、ディスコやユーロビートで流行った曲の展開丸ごとをMix CDとしてリリースしていました。
1992年に活動を停止し、DJ Kooは小室哲哉とTRFを結成し、DJ hondaは渡米し、本場アメリカでプロデュース業に専念しました。
DJ Kooってバラエティ番組とか一時期出てて結構いじられてたけど、スゴイ人だったんだね!
もちろんなのだ!
今も現役でクラブでDJをしている日本のDJ界の超大御所なのだ!
いとうせいこう
日本語ラップのパイオニアといえばやはり「いとうせいこう」。
いとうせいこうとヒップホップの出会いは藤原ヒロシと仲良くなって遊ぶようになってからでした。
藤原ヒロシのDJセットやスクラッチを初めて見て衝撃を受け、引用する音楽(サンプリングミュージック)で新しい音楽を作るというのは「ポストモダンだ、ストリートの現代音楽だ」と思ったそうです。
藤原ヒロシはロンドンに留学中にセックスピストルズの元マネージャーのマルコム・マクラーレンと知り合い、そこでヒップホップというジャンルの存在を教えてもらいました。
当時、日本ではヒップホップが認知されていなかったため、認知してもらうことを主眼に置き、「ノベルティラップ」=コメディタッチでお笑いに近いラップスタイルをやっていました。(実際、大学生時代はお笑い芸人としてラジオの番組内で活動していました。)
ゆえにいとうせいこうは
「何がオールドスクールだよ。あんな奴が最初な訳ないじゃん!」という意見や
「ラップ=今の価値観」で捉えている若者からすると「全然ハードコアじゃないし、ダサい」というイメージがあるのはある意味仕方のないことだと認識している様です。
1985年に「業界くん物語」をリリース。
いとうせいこうは当時、出版社でサラリーマンをしていてその企画の一部でした。ビートに対してのラップの乗せ方が後の日本語ラップを変えたと言われています。
1984年、「吉幾三/俺ら東京さ行ぐだ」がリリースされ、1985年にザ・ハードコア・ボーイズがRemixし、「俺ら東京さ行ぐだ(ほうらいわんこっちゃねえRemix)」をアンサーソングとしてリリースする予定でしたが政治批判が含まれていました。
そのため少量のプロモ盤しか出回っていません。
ザ・ハードコア・ボーイズは桑原茂一、藤原ヒロシ、ヤン富田、DJ K.U.D.O.、Dub Master X、いとうせいこうが参加したグループ。
1986年に「いとうせいこう&Tinnie Punx(タイニー・パンクス)」名義でリリースされたアルバム「建設的」は「日本語ラップのクラシック」として評価されています。
このアルバムを制作する際にいとうせいこうは兼ねてからの友人である藤原ヒロシと高木完と一緒に制作したいと思い、2人に声をかけました。
1989年には「MESS/AGE」をリリース。
このアルバムでは今までのコメディ要素を排除しました。
いとうせいこう自身も言ってるように全然ラッパー的な見た目では無いが、間違いなく日本のラップを育み、支えた重要人物です。
いとうせいこう曰く、ヒップホップはアメリカ人が発明したあらゆる音楽を入れることができる「器」であると定義しています。
「ヒップホップだけを聴いてヒップホップをやるとやせ細ってしまう」といとうせいこうは言います。
「ヒップホップの前に他のジャンルを聴いていたというのはある意味、その人物の土台となり、そういう人物がヒップホップをやった時に新鮮なものができる」としています。
うん、うん!いろいろなジャンルの音楽を聴こう!
第二世代
1994年に3月リリースの小沢健二feat.スチャダラパーの「今夜はブギーバック」のヒットに加え、8月にはEast END×Yuriがリリースした「DA.YO.NE.」が大ヒットしました。
また、「DA.YO.NE.」の次のシングル「MAICCA~まいっか」が流行語にノミネートされるなど日本のメジャーシーンでラップという歌唱スタイルが認知されるようになりました。
「DA.YO.NE.」は全国のミュージシャンによってご当地カバーされて当時人気を博したのだ。
「DA.YO.NE.」は英語以外のラップでの売り上げ枚数が当時、ギネス記録に認定されました。
East ENDのGaku MCは共にサッカー好きの「Mr.Children」のボーカル「桜井和寿」とのユニット「ウカスカジー」を2013年に結成し、シングル2曲、アルバム3作、ミニアルバムをリリースしています。
さんピン世代
「さんピンCAMP」というイベントのことで1996年7月7日に開催されました。
このイベントは日本のヒップホップシーンでは初めての大舞台である日比谷音楽堂での開催でした。
主宰を務めたのは故ECDであり、出演者も今思えば超豪華でした。
今となっては日本のヒップホップシーンを牽引してきた大御所ばかりが一堂に集まっていたのである。
出演者はECDを始め、Zeebra、K-Dub Shine、Rhymester、Lamp Eye、Soul Scream、You The Rock★、Buddha Brand(ブッダ・ブランド)、Muroなどなど。
わぁ、ぼくでも知ってる日本のヒップホップ界の大御所ばっかりだ!
この世代のキーマンと言えばやはり、Zeebraだと思います。
Zeebra
Zeebraは元々、自身が矢面に立ってメディアに露出していこうと思っていたそうです。
メディアをラップやヒップホップの面白さ、表現方法を伝える場だと捉えていたため、積極的に雑誌やTV、ラジオ、イベントに出演していきました。
Zeebraはデビュー前に幼馴染のDJ Oasisと共にPositive VibeというDJユニットを結成します。
のちにラップも始め、当時は英語でラップをしていました。
英語でラップしていた理由はいとうせいこうや近田春夫はちゃんと韻を踏んでいましたが、基本的には柔らかめな韻だったため、「日本語だとちょっと違うかな...」と思って英語にしていたようです。
そんな時にK Dub Shineと知り合い、日本語で固めの韻を踏んでいたため、意気投合し、自身も日本語でラップをするようになりました。
そしてK Dub Shineを加え、1993年にキングギドラを結成。
ちなみにK-Dub ShineはZeebraより3歳年上なのだ。
1995年にアルバム「空からの力」をリリース。
2002年には2001年の「9.11」をきっかけにキングギドラを再集結させ、アルバム「最終兵器」をリリース。
2003年にリミックスアルバム「最新兵器」をリリースします。
「最終兵器」によって日本のラップはハードコア要素が強くなり、のちのラッパーたちの「ラップの価値観」を変容させます。
いわゆるコンシャスラップ(意識的なラップ)。
東日本大震災の「3.11」をきっかけに再々集結させます。
2011年にグループ名をキングギドラからKGDRに変更し、「アポカリプス・ナウ」をリリースします。
2022年には再々々集結させ、3つのシングル「Raising Hell」、「真実のウィルス」、「Hip Hopia」をリリースしました。
3人の衰えの無さを見て、圧巻のパスマイクを見て驚いた人も多かったと思います。
ソロとしてのZeebraは1997年からメジャーデビューを果たし、1998年に1stアルバム「The Rhyme Animal」をリリース。
この頃、自身のクルー「Urbarian Gym(アーバリアン・ジム)=UBG」を結成します。
1998年、Dragon Ashのシングル「Gratefull Days」でコラボし、人気を獲得します。
ヒップホップ好きじゃなくても1度は聞いたことのあるフレーズ”俺は東京生まれHIP HOP育ち、悪そうな奴は大体友達~”はこのDragon Ashとのコラボで生まれた日本における1番有名なパンチラインです。
またこの1998年にTV番組「Beat To The Rhyme」の放送を開始。
この頃からバラエティー番組やTVドラマ、映画に出演していきます。
Zeebraは2013年までに8枚のソロアルバムをリリースしています。
2010年代はどちらかというと客演やシングルといった単発のプロジェクトでの楽曲制作が多くなり、裏方業が増えていきました。
2012年には自身もコーディネートした「高校生ラップ選手権」(BSスカパーの番組「BAZOOKA!!!」の企画)に審査員として参加しました。
高校生ラップ選手権の成功を受けて、「高校生ラップ選手権を甲子園として、そのあとのプロリーグを作ってあげる」を念頭に2015年に「フリースタイルダンジョン」の放送を開始しました。
また、2017年には24時間ヒップホップ専門ラジオ局である「WREP」を開局しました。
Zeebraは間違いなく日本のヒップホップを先頭に立って底上げをした人物です。
Zeebraって2020年に49歳でおじいちゃんになったんだよね!
うむ。ちなみにアーティスト活動をしながらシングルファーザーとして息子さんたちを育てていたのだ。
第三世代
2000年代初頭頃の日本のヒップホップはやや衰退期でした。
代わりにヒップポップと揶揄されるようないわゆるセルアウト系ヒップホップが流行していました。
その代表格がDragon Ash、リップスライム、キックザカンクルーでした。
アンダーグラウンドとオーバーグラウンドでは音楽的な価値観は違ったかも知れないけど、どのグループも素晴らしいアーティストなのだ!
もはや筆者もこの3グループのおかげでヒップホップのトリコになったって言ってたもん!
衰退の直接的な原因という意味ではいささか疑問も残りますが、前述のキングギドラの「公開処刑」という楽曲の中でDragon AshのKJやリップスライム、キックザカンクルーといったアーティストをディスったことが原因で「ヒップホップ=怖い」というイメージをメジャーシーンに植え付け、深い断層を生み出しました。
また、2000年代中盤ころからは「ジャパニーズウエッサイ」というスタイルのアーティストや楽曲が多くリリースされていきます。
今考えるとこのスタイルってかなり謎だし、ネーミングにセンスが無いよね。
でもこのスタイルからAK-69やLGYankeesみたいな超売れっ子が出てきたのだ。
ちなみに筆者はがっつりこの「ジャパニーズウエッサイ」スタイルの世代であり、DJスタイルもUSの西海岸ばかりを選曲していました。
そして、この圧倒的に不利な状況で般若が頭角を現すようになります。
般若
1996年にYou The Rock★がMCを務めていたラジオ番組「HIP HOP Night Flight」に般若としてデモテープを送りつけ、ラジオでそのデモテープが流れました。
当時、般若はDJ Baku、フィメールラッパーのRumiとYoshiからなるグループで元々「般若」はグループ名でした。
現在はYoshiがグループ名を受け継ぎ般若として活動しています。
You The Rock★とZeebraが番組中Yoshiに生電話をかけ、ケンカ腰でフリースタイルを2人にかまします。
この時Yoshiはラップを初めてまだ1ヶ月でした。
ちなみにこの時まだYoshiは高校生だったのだ。
般若は伝説的グループ「Microphone Pager」のライブを年をごまかして観に行った際に衝撃を受け、自分の価値観を変えたそうです。
また、その時たまたまMUROがギャラを手渡される現場を目撃し、「大金を手渡されるのを見た」というのも大きかったそうです。
初期の般若はとにかく過激さが売りでした。
「ひたすら過激なことを言ってればいいや」と思っていた時期もあり、反骨精神の塊でした。
また、「とにかく認めてもらいたい」という承認欲求も強く、当時はそれが大きかったと振り返っています。
般若は一時期、ほぼ毎日の様にフリースタイルで音声ブログを更新していました。
番組「フリースタイルダンジョン」で初代ラスボスだった人物でもあります。
しかし、意外にも大会での優勝経験はUMB2008での優勝しかなかったりします。(優勝を1回するだけでもかなりスゴイことですが)
日本におけるフリースタイルバトル黎明期の優勝こそ逃したものの名勝負を数々繰り広げてきました。
また、音源での評価はすこぶる高く、クラシックを多く生み出しました。
思わず笑ってしまう様な楽曲や反戦や虐待などの重いテーマもありつつ、聴いていて飽きないトピックは単純に「ヒップホップって面白い」と思わせてくれるラッパーの1人だと思います。
フリースタイルでも音源でも圧巻の存在感のあるラッパーだと思います。
新世代
2012年に始まったBSスカパーの番組「BAZOOKA!!!」内の「高校生ラップ選手権」という企画に加え、
2015年に始まったテレビ朝日の「フリースタイルダンジョン」といった番組の放送開始により日本のヒップホップ界隈が活性化され、まだ見ぬ新しい世代のラッパーやアーティストがシーンに台頭していきました。
その若い世代の代表格がT-PablowとYZERRを含むBad Hopです。
Bad Hop
神奈川県川崎市のクルーであるBad Hopは8人組ラップグループで2014年から活動を始めます。基本的には地元の幼馴染を中心に結成されました。
2023年5月に解散を発表しました。
メンバーのT-Pablow(旧:K-九)は「高校生ラップ選手権」の初代チャンピオン(第4回大会も優勝)であり、その後フリースタイルダンジョンでモンスターとして出演。
メンバーのYZERRはT-Pablowの双子の弟で「高校生ラップ選手権」の第5回大会で優勝しました。
YZERRはBad Hopのまとめ役で会社の社長なのだ。
この2人の人気(2人ともイケメン)が高まり、一気にスターに駆け上った印象です。
実際には2012年以前からラップをしていた様なのでラップ歴、アーティスト歴は長いと思います。
2014年にZeebraのレーベル「Grand Master」と双子で契約し、シングル「Fire Burn」をリリースし、2015年にアルバム「Born To Win」をリリースしました。
Bad Hopとしては2014年にアルバム「Bad Hop Era」を無料配布。
以降、多忙の中ほぼ毎年というハイペースでアルバムを制作し、日本における人気ラップグループになりました。
また、デカい会場で次々とツアーやワンマンライブなど行い、成功させており有言実行する男らしいグループの印象を受けます。
Bad Hopは最新のフローやリリックやフック(サビ)、最新のファッション、最新のビート(TrapやDrill)といった若者に刺さりやすく、わかりやすい楽曲は本場アメリカと遜色のないレベルだと思います。
Bad Hopはサンプリングじゃなくてパクりという風によく言われますが、「HIP HOP」という単語の意味には新しいものに飛びつくという意味もあるため、最新のヒップホップのトレンドを日本にイチ早く届けるという役割を担っていたと思います。
ただ、批判の通り「創作上楽曲が原曲に似過ぎているというオリジナリティの無さ」は否定できないかも知れません。
まとめ
日本のヒップホップの礎を築いた人物は「いとうせいこう」。
日本のヒップホップを表と裏で支えてきた「Zeebra」。
日本のヒップホップを面白いと感じさせてくれたのが「般若」。
若者を巻き込んで日本のヒップホップをネクストレベルにまで押し上げた「Bad Hop」。
実際にはまだまだ重要人物はいますが、ざっくりとした歴史と最重要人物達は抑えられたかと思います。
今回は日本のヒップホップの歴史をサクッと要点をまとめて紹介していきました。