2Pacについて
1996年9月7日世界に衝撃が走りました_ラッパー2Pacがラスベガスで何者かに襲撃され、意識不明の重体で病院に運ばれました。
9月13日、搬送先の病院で息を引き取り帰らぬ人となり、世界は悲しみに暮れることとなりました。
私自身も「もし今も生きていたら...」と考えることがよくあります。
デビュー以来、世界累計7500万枚という驚異の売り上げに加え、700曲以上を世に残した伝説のラッパー。
今回は25歳という若さでこの世を去った伝説のラッパー2Pacについての講義になります。
自伝映画「All Eyes On Me」では2Pacが生前関わっていた人物の証言により構築されたましたが、時間の都合で泣く泣くカットされた部分やそもそも触れられなかった部分も掘り下げたいと思います。
今回は2Pacの人生についての講義になります。
今回の講義で得られる知識
- 2Pacとは
- 2Pacの人生
- 2Pacの最期
2Pacという男
この節では2Pacがラッパーになるまでのお話です。
2Pacは何者か
2Pacは1971年6月15日にニューヨークで生まれました。
本名を「Tupac Amaru Shakur(トゥパック・アマル・シャクール)」と言います。
彼が1歳になるまでは「Lesane Parish Crooks(レサン・パリッシュ・クルックス)」という名前でした。
この旧性の名付け親は「Geronimo Pratt(ジェロニモ・プラット)」でした。
2Pacの母であるアフェニも元々は「Alice Faye Williams(アリス・フェイ・ウィリアムズ)」という名前でしたが、1968年にイスラム教スンニ派の「Lumumba Shakur(ルムンバ・シャクール)」と結婚したことにより改名しています。
ちなみにこの年にアフェニはブラックパンサー党に加入しています。
2Pacの父親
2Pacの父親は先述のルムンバでは無く、アフェニの愛人「Billy Garland(ビリー・ガーランド)」でした。そのことが原因でルムンバとアフェニは離婚してしまいます。
1975年に「Mutulu Shakur(ムトゥル・シャクール)」とアフェニが結婚し、妹の「Sekiwa Shakur(セキワ・シャクール)」が1982年に誕生するも同年両親は離婚することになります。
2Pacにとっての父親像はムトゥル、ジェロニモ、密売人の「レグス」という人物でした。
ちなみにこのレグスという男はアフェニの愛人であり、アフェニがクラック中毒になってしまう原因の人物であり、2Pacが提唱していた「Thug(サグ)」の元ネタ的人物でした。
ちなみにムトゥルには4人連れ子がいました。その内の「Mopreme Shakur(モプリーム・シャクール)」はラッパーであり、2Pacの後のグループのメンバーになりました。
ムトゥルもジェロニモもブラックパンサー党で人権活動家として活動しており、国際指名手配されていました。
2Pacのデビュー前
基本的にアフェニが女手一つで育てられ、一家は当然貧乏でした。
当時、一家はイーストハーレム(通称スパニッシュハーレム)で暮らしていました。
1984年、メリーランド州ボルチモアへ引っ越し、2Pacはボルチモア芸術学校に入学します。
2Pacはここで演劇、バレエ、詩、ジャズ等多くの芸術に触れました。
この時2Pacはシェイクスピアとラップに興味を持ちます。
学校の友人には生来の親友である「Jada Pinkett(ジェイダ・ピンケット)」と出会います。
ジェイダ・ピンケットは現在も女優や司会業で活躍しており、1997年ラッパーで俳優の「Will Smith(ウィル・スミス)」と結婚しています。
現在は仮面夫婦なのだ!
ジェイダは映画「MenaceⅡSociety」のヒロイン役ロニーを演じていたり、映画「Matrix(マトリックス)」シリーズではモーフィアスの元恋人役のナイオビ役を演じています。
2Pacの楽曲にはジェイダについての曲がいくつかあります。
彼らは「男と女でありながら親友と呼び合える唯一の存在」という風に言っています。
しかし、2Pacの詩集の中の「Jada」に綴られている言葉はどちらかというと恋心に近い内容になっている様に個人的には感じてしまいます。
1988年にはカリフォルニア州マリンシティに引っ越します。
1989年に「Leila Steinberg(レイラ・スタインバーグ)」と知り合います。
レイラはオークランドという街で若者達に詩を教えていました。
「The Microphone Sessions(TMS)」というエンターテイメント全般のライティングワークショップを定期的に開催しており、2Pacも参加していました。
また、週に一度レイラ宅で開催されていた詩を書くサークルに参加しました。
このサークルでは積極的にリーダー役を務め、場を和ませていたそうです。
レイラは2Pacの家庭の事情(貧困とアフェニの中毒状況)を考慮して自宅に居候させることにしました。
この時、後の「Young Black Brotha Records(YBB)」に所属することになるラッパー「Ray Luv」と共にレイラ宅で同居することになります。
また、レイラ宅にある様々なジャンルの本を片っ端から読破していったそうです。
レイラは2Pacのメンターとして2Pacのマネージャーになりました。
この頃2Pacは友人たちと共に2Pacにとっての初のグループである「Strictly Dope」を結成します。
メンバーは盟友Ray Luvを始めDJ Dize、Puki、Byron a.k.a.Capital B、Shakeeo、Mike Coolle、Marcusの8人組でした。
一応レコーディングされた音源は4曲確認されていて、いわゆる流出音源であり、正規にリリースされたものではありませんでした。
2Pacの下積み時代
レイラは2Pacの才能を埋もれさせないため、自身では無くもっと実力のある人物にマネジメントをしてもらうために動きます。
Digital Underground
レイラは当時、オークランドを活動拠点にしていた「Digital Underground」のマネージャーの「Atron Gregory(アトロン・グレゴリー)」に2Pacを紹介します。
アトロンは2PacがDeath Row Recordsに加入するまでマネージャーとして連れ添った敏腕マネージャーでした。
アトロンは「World Class Wreckin’Cru」の「Kru’Cut Records」と「Eazy-E」率いる「Ruthless Records」のコンサートマネージャーを務めていた人物です。
現在もその経験を基に自身で設立したTNT RecordingsのCEOを務めている人物です。
アトロンによってDigital Undergroundのサブメンバーとして迎え入れられダンサー兼ハイプマン(ライブでの盛り上げ担当、日本でいう所の前説役)として活動を開始しました。
この時2Pacでは無く「MC New York」というステージネームで活動していました。
1991年1月にリリースされたDigital Undergroundの「This Is An EP Release」に収録された「Same Song」で正式にラッパーとして参加しました。
「Same Song」は1991年2月に公開された映画「Nothing But Trouble」のサウンドトラックに収録され、MVで映画のプロモーション映像も差し込まれています。
ちなみにEazy-EとDr.DreもこのMVにチョイ役で参加しているのだ。
1991年10月にDigital Undergroundの2ndアルバム「Sons Of The P」をリリースし、2Pacはこのアルバムで2曲参加します。
この時(1990年頃から)、Digital UndergroundのメンバーでもあるNYのクイーンズのラッパー兼プロデューサーの「Stretch(ストレッチ)」と友情を深めていきます。
ストレッチは別グループ「Live Squad」のメンバーでもあるんだよ。
2Pacというラッパー
2Pacの生前にリリースされたアルバムは4枚です。
この節では2枚のアルバムと2Pacのグループ「Thug Life」のアルバムについてです。
2Paclypese Now
1991年は2Pacはインタースコープと契約し、ソロアルバム「2Paclypese Now」をリリースします。
Digital UndergroundやLive Squadの面々がバックアップして制作しており、盟友Ray Luvも作詞の協力やバックボーカルとして参加しています。
2Pacが出演した1992年公開の映画「Juice」の撮影中に制作されたアルバムでした。
この頃の2PacはGangsta Rapというよりコンシャスラップ(政治的な楽曲)を軸に楽曲制作をしていました。
アメリカ社会での黒人の立ち位置や暴力やギャングと言ったトピックが多く、音楽評論家からの評価は非常に高かったのですが、リリースされた当時の売り上げは全米チャートで64位、HIP HOPチャートでは13位でした。(ほぼ無名のラッパーとしてはスゴイ記録です。)
リリシズムは後年徐々に評価されますが、当時のインタースコープの首脳陣もリリースに足踏みする際どい内容でした。
アルバムの約半分の楽曲を手掛けたプロデューサーBig D The Impossibleはのちに名曲「Changes」をプロデュースした人物です。
この曲自体は1992年にレコーディングされていました。実際に収録されたアルバムは2Pac亡き後のベスト盤「Greatest Hits」でした。
アルバムリリース前にシングル化された「Brenda’s Got a Baby」は2Pacの楽曲の中でも指折りの名曲であり、メッセージ性が特に高い曲になります。
当時取り沙汰されていた社会問題でもある「10代の妊娠」や「ゲットーでの子育て」、「政府の子育て支援不足」を訴えた曲でした。
という衝撃的な曲でした。
この話は当時、NYで実際にあった話を基に作られた曲でした。
MVも作られたこの曲の監督は映画「MenaceⅡSociety」や「Dead Presidents」を手掛けた「ヒューズ兄弟(アレン・ヒューズとアルバート・ヒューズ)」でした。
同アルバムのシングル「Trapped」は警察と囚人についての曲でしたが、この曲をリリースした頃に2Pacは信号無視を理由に警官から暴行を受けました。
また、このアルバムのリリースにより当時の副大統領であるダン・クエールに目を付けられ警察にも目を付けられてしまいます。
Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z…
1993年に2ndアルバム「Strictly 4 My N.I.G.G.A.Z…」をリリース。
「Never Ignorant In Getting Goals Accomplished」の略なのだ。
シングルの「Holler If Ya Hear Me」はダン・クエールと警察に対して抵抗した曲でした。
収録曲の「Lost Wordz feat.Ice Cube&Ice-T」も警察批判の曲でした。
Ice CubeはN.W.A.時代に「F*ck Tha Police」、Ice-Tは自身のバンドBody Countで「Cop Killer」という曲をリリースしていました。
警察嫌いを集めた曲なんだね。
「I Get Around feat.Shock G&Money B」、「Keep Ya Head Up feat.Dave Holister」のような女性についての曲を収録しました。
前者は女性軽視があるのに対し、後者は女性を励ます様な曲になっています。
「Keep Ya Head Up」のMVにはジェイダとアフェニが出演しています。
また、2Pacが亡くなった後のアルバム「Still I Rise」には根強い人気を誇る名曲「Baby Don’t Cry(Keep Ya Head UpⅡ)」が収録されています。
「Papaz Song」は腹違いの兄Mopreme Shakur(Whycked)をゲストに迎え父親の曲を収録しました。
1992年の時点ではこのアルバムのタイトルは「Troublesome21」でした。しかしワーナーにリリースを拒否されたため、元々あった曲をお蔵入りにして新たに曲をつくりました。
Thug Life Vol.1
2Pacにとって2つ目のグループである「Thug Life」は1993年頃結成されました。
同時期に2Pacのレーベル「Outta Da Gutta Records」を設立しました。
メンバーはBig Syke、Whycked a.k.a.Mopreme Shakur、Rated R、Macadashis、Stretch。
1994年にアルバム「Thug Life Vol.1」をリリースしましたが、やはりこのアルバムでもインタースコープ側がリリースを拒否したため正規にリリースされた曲は10曲だけでした。
一応、非正規ではあるもののデモバージョンが存在しており、そのデモには18曲が収録されていました。
また、1996年に「Thug Life Vol.2」(未発表音源)がリリースされました。
アルバムからのシングル「Pour Out A Little Liquor」は自身も出演した映画「Above The Rim」のサウンドトラックにも収録されました。
サウンドトラックはDeath Row Recordsが監修しており、エグゼクティブプロデューサーにシュグ・ナイト、総監督にDr.Dre。
このサントラではWarren GとNate Doggのブレークスルーとなった「Regulate」がヒットし、ソースアワードのサウンドトラック・オブ・ザ・イヤー賞を受賞したのだ。
また、2Pacの「Pain feat.Stretch」はDr.Dreがあまり気に入っていなかったためオリジナル盤には収録されておらず、2ndプレス(ヨーロッパ盤)以降のボーナストラックに収録されました。
ちなみにボーナストラックにはNaughty By NatureのTreachとの「Loyal To The Game」も収録されました。
Big Sykeと2Pacは1992年時点で知り合っており、この時チカーノラッパーでプロデューサーのJohnny Jを2Pacに紹介しました。
2PacはJohnny Jと出会って3日間で9曲もレコーディングしたとも言われており、最終的に100曲近い曲をレコーディングしたらしいよ。
役者としての2Pac
当時「ラッパー2Pac」として認識されるよりも当たり役となった「ビショップ」として認識されることが多く、2Pacは「ビショップ」と呼ばれることを嫌っていたそうです。
Juice
1992年に公開された映画「Juice」のローランド・ビショップ役のオーディションがNYで開催されたました。
この時Digital UndergroundのMoney Bの付き添いで2Pacとストレッチが同行しました。
2Pacは映画プロデューサーのNeal H Moritz(ニール・H・モリッツ)に気に入られ他のオーディション参加者を差し置いて2Pacがビショップ役を獲得しました。
このオーディションにはNaughty By NatureのTreach(トリーチ)も参加しており、この時Treachとの親交を深めました。
Treachも映画にチョイ役で出演し、撮影中は2Pac、ストレッチ、トリーチは常に一緒に行動していました。
映画撮影中に楽曲制作を行っていましたが、惜しくもサウンドトラックに参加することはできませんでした。
公開以来、映画もサウンドトラックも大ヒットを記録しました。
ローランド・ビショップというキャラクターの評価が高く、2Pacを一躍スターに押し上げました。
1993年の映画「MenaceⅡSociety」では出演するはずでしたが、シャリフというキャラクターが「Nation Of Islam(ネイション・オブ・イスラム)」に改宗するというのがどうしても気に喰わず、説明も無かったため2Pacはセット裏で暴れ始めました。
そのため、2Pacは役を外されてしまい、あろうことかその半年後、監督のアレン・ヒューズに暴行を加えている。(これにより15日間投獄されます。)
ちなみに出演予定だったMC RenやSpice1も「シャリフがネイション・オブ・イスラムに改宗する」というその点は腑に落ちず、出演をキャンセルしています。
MC Eihtは映画に出演したものの「なぜブラックムービーとして作られる作品なのにネイション・オブ・イスラムに改宗するのか」という点は制作陣から説明はなかったようです。
我々日本人にはあんまりピンと来ない問題ではあるけど彼らラッパーからすると重大な問題のようなのだ。
アレン・ヒューズは2Pacのことを「ムードメーカーである2Pacの一面」と「凶悪な一面(Thug)」、「プライベートな一面」を見てきた人物です。
「プライベートでは控え目な人だった」という風に言っています。
また、「2Pacは2Pacという人物を対外的に演じていた」と言っています。
その他の作品
Juiceでのビショップ役が高く評価されたことにより1993年の映画「Poetic Justice」でジャネット・ジャクソンとW主演を演じています。
2Pacはデスロウ主宰の「Poetic Justice」のサウンドトラックに参加します。
おそらくこの時シュグと知り合います。
2Pacの自伝映画でもシュグから「なんか困ったことがあれば言ってこいよ」的なことを言われてたよね!
1994年に公開された映画「Above The Rim」という作品にも出演しました。
この作品が生前公開された最後の映画になりました。
他にも2Pac亡き後公開された映画「Bullet」、「Gridlock’d」、「Gang Related」など様々な作品に出演しました。
Higher Learning
1994年に映画「Higher Learning」という作品で主役として主演予定でしたが、この時懲役を言い渡されたため、主役から降ろされてしまいます。公開は1995年。
監督のジョン・シングルトンは2Pacのために書いた映画だったため、代役を考えていなかったようです。
しかし、既に進行しているプロジェクトだったため、なくなく代役であるオマー・エップスを起用しました。
ちなみにIce CubeとBusta Rhymesも出演し、それぞれサウンドトラックにも参加しています。
ちなみにこの映画にレオナルド・ディカプリオも出演予定でしたが、降板しました。その理由が2Pacが降板したからという理由かどうかはわかりません。
NYでの様々な出会い
2PacはNYでNotrious B.I.G.(愛称:Biggie/ビギー)や黒い噂の絶えない人物たちとの出会いに加え、のちに夫婦になるケイシャ・モリスと出会います。
Notrious B.I.G.との出会い
ビギーと2PacはビギーがBad Boy Recordsからデビューする少し前の1993年頃に知り合っています。
当時、2Pacは楽曲制作と映画撮影で度々NYを訪れていました。
親交を深めた2人はNYに2Pacが来たらビギーがおもてなしし、LAにビギーが来たら2Pacがおもてなししていました。
一説によると2Pacの別プロジェクトである「Outlaws」にビギーを誘ったほど仲が良かったようです。
ちなみにBad Boy Recordsの社長であるP.DiddyはBad Boy Recordsを立ち上げた際2Pacを誘っていましたが2Pacはその誘いを断っています。
2Pacとビギーの生前にレコーディングされた曲は3曲ありますが、オリジナルはどれもレア音源になっています。
一番有名なコラボ曲は「Runnin’From The Police」です。
のちにEminemがリミックスした「Runnin’」の方が圧倒的に知名度が高くなりました。
1994年に「DJ Eddie F.And The Untouchables/Let’s Get It On The Album」というアルバムに収録された「Let’s Get It On」は2Pacとビギーをfeat.しています。
ビギーのグループ「Junior M.A.F.I.A.」のデモ音源の「House Of Pain」という曲に2PacとStretchがfeat.されています。
一応Junior M.A.F.I.A.のミックステープに収録されましたが、配布用のため音質が悪かったのがなかなか惜しい作品。
ビギーとの出会いとほぼ同時期に色々と黒い噂のある人物とも知り合います。
ハイチの2人の悪漢との出会い
James Rosemond(ジェームズ・ロズモント)またの名をJimmy Henchman(ジミー・ヘンチマン)。
当時、Little Shawnというラッパーのマネジメントをしており、「Dom Perignon」という楽曲で2Pacと引き合わせました。
Jacques Agnant(ジャッカス・アグナント)またの名をHaitian Jack(ハイチアン・ジャック)と知り合います。
歌姫「Madonna」と知り合いだったため、2Pacと引き合わせ2人は度々デートをしていました。
この2人とはマネジメントやプロモーターとして付き合いだしました。
また、この2人は共にハイチ出身の密売人でした。
2Pacの妻となる女性との出会い
のちの2Pacの妻となる女性「Keisha Morris(ケイシャ・モリス)」(当時20歳で大学生)と1994年頃に知り合います。
2人が初めて出会ったのはNYのクラブでした。
その時は簡単な話しかしなかったようですが、1ヶ月後2人はまた別のクラブで再会します。
2Pacは1ヶ月の間NY中のクラブに行ってはケイシャを探し続けていたのだ!
なんか純愛って感じだね!
2人は電話番号を交換し、以降2人はよく電話で話し合いました。(交際がスタート)
そして1995年4月29日に2人は結婚しました。
この時2Pacは刑務所でしたが、(詳細は次節)ケイシャは献身的に刑務所に面会に通います。
しかし、2Pacが刑務所から出所後しばらくして2人は離婚。
離婚はしたものの交友関係は続いていて2Pacは曲ができる度に音源を聴かせたり、アドバイスをもらったりしていました。
2Pacが亡くなる直前まで一緒にホテルで過ごしたり、電話をしていたようです。
ケイシャは離婚する際に「利用された」とも思いましたが、傷付いてもおらず、2Pacというラッパーのことをよく理解していました。
ちなみに2Pacが捕まっている間に保釈金の捻出に奔走してくれていたのがケイシャだったのです。
2Pacのマネージャーのアトロンやインタースコープにも掛け合いましたが、イイ返事は来ませんでした。
誰も助けてくれないと悟った2Pacはケイシャにデスロウのシュグにコンタクトを取ってもらい、140万ドルもの保釈金を支払ってもらいました。
苦境に立たされる2Pac
2Pacはラップスターであり、俳優としても順風満帆でしたが、1994年は2Pacにとって苦境に立たされる年になってしまいました。
クアッドスタジオでの襲撃
2Pacは1994年11月30日NYのクアッドスタジオがあるビルのロビーで襲撃され、重傷を負いました。
この時、30000ドルの指輪と10000ドルのゴールドチェーンが奪われたことから警察は強盗犯の仕業だと断定しました。
のちにこの事件の犯人はDexter Isaac(デクスター・アイザック)という人物であり、2Pacが生きていれば40歳の誕生日の日に自白しました。
デクスター・アイザックはジミー・ヘンチマンから2500ドルで2Pacを襲うよう雇われたました。
2500ドルって…30万円くらい?
えぇ…安くない?
ケイシャとビギーは2Pacに再三「ジミー・ヘンチマンとハイチアン・ジャックと付き合うのは辞めろ!」と助言したけど2Pacその助言を聞き入れなかったのだ。
2Pacは襲撃後、すぐに病院に搬送され、手術を受け一命を取り留めます。
医師からは安静を促されますが、それを振り切って友人である女優の「ジャスミン・ガイ」の自宅に転がり込み、療養します。
「居場所は突き止めた!命は無いと思え!」と言った内容の脅迫電話が病院にひっきりなしにかかってきていたそうです。
病院にいるのは危険であると判断したのでしょう。
翌日、ファンへの性的暴行容疑の件で起訴されており、その裁判に出廷しました。
Me Against The World
最終的に裁判では敗訴し、1995年2月に懲役刑を言い渡されてしまいます。
2Pacは判決が出る2月までに3rdアルバム「Me Against The World」を完成させます。
2Pacの生前最も評価の高いシングル「Dear Mama」を含み、2Pacの心の内側を表現した前作とも次作とも違ったテイストの傑作となりました。
アルバム自体は投獄後の1995年の3月にリリースされ、話題性もあり全米/HIP HOPチャート共に1位を獲得しました。
1996年のソウル・トレイン・ミュージック・アワードでは最優秀賞を受賞しました。
「Dear Mama」が完成した時にすぐにジェイダに電話をして曲を聴かせたそうです。
この「Dear Mama」という曲はヒップホップ史における古典であり、至宝。
誰もが認めるマスターピースとして評価され、2009年には議会図書館のナショナル・レコーディング・レジストリに登録されました。
このアルバムの客演にはOutlawsの前身「Dramacydal」、親交のあったベイエリアのベテランラッパー「Richie Rich」のみがラッパーとして参加しています。
Richie Richは415というグループで90年代初頭から地元を中心に活躍していた人物であり、次作でも2曲に参加しており、この時この2人が仲が良かったのが伺えます。
ちなみにこの415というグループの影響を受けてヒップホップスーパーグループ213は結成されるのだよ。
213のメンバーはまだ売れる前のSnoop Dogg、Warren G、Nate Doggだよ。
415のDJ Darylは2ndアルバムで「Keep Ya Head Up」をプロデュースした人物です。
デスロウへの加入
クアッドスタジオの襲撃事件後、「Notrious B.I.G./Who Shot Ya」という楽曲をたまたま耳にして2Pacは疑心暗鬼に陥ってしまいます。
また、ビギーとストレッチが2Pacが刑務所に投獄されている時によく一緒に行動を共にしていました。
さらにビギーとストレッチは面会に来なかったとされており、2Pacは親友のはずのビギーとストレッチに対して憎悪の感情が日に日に増していきます。
何としても出所したかった2Pacはデスロウレコーズのシュグと契約を結びます。
この契約には3枚のアルバムリリースを義務付けられていました。
2Pacの快進撃
2Pacの刑期は1995年2月~1995年10月。
出所した2Pacはすぐにデスロウでレコーディングに取り組み、Dr.Dreとのコラボシングル「California Love」を1995年の年末にリリースします。
そして生前最後となる2枚組のアルバム「All Eyes On Me」を1996年の2月にリリースします。
2枚組のアルバムはヒップホップ史上2Pacが初めてでした。
また、デスロウとの3枚のアルバムをリリースするという契約の内の2枚のリリースを同時に行ったということになります。
このアルバムから2Pacのギャング性、攻撃性は高まり、「ウエッサイ=West Side」という言葉を多用する様になります。
楽曲だけでなく2Pac自身の身の振り方や人格も変容していきました。
当時、飛ぶ鳥を落とす勢いがあったデスロウでのリリースということもあってアルバムは非常によく売れました。
ゲスト陣もプロデューサー陣も豪華なラインナップであり、のちに実質的なベストアルバムなのでは?というほどの仕上がりになっています。
2Pacの最期
「All Eyes On Me」の収録曲の「How Do You Want It feat.KC&Jojo」のシングルのB面にヒップホップ史上最も残酷なディスソング「Hit’Em Up」が収録されました。(リリースは1996年6月4日。)
「Hit’Em Up」はビギーやBad Boy Recordsの面々、この件に首を突っ込んできた人物を片っ端からディスり倒した曲でした。
この曲のプロトタイプはすでに1995年の10月には制作されていたそうです。
「ビギーの妻フェイス・エヴァンスと寝た」というホントなのかウソなのか微妙に分かりづらいネタをブッ込む辺り「2Pacは本当に怒っていた」のだということが分かります。
しかし、これに対してBad Boy陣営は一切反応を示しませんでした。
というのもビギーは2Pacと話し合いでこの件の誤解を解こうと考えていました。
そのため仲間には絶対に2Pacの挑発に乗らないようきつく言っていました。
くぅ~っ!!ビギー男らしいぜー!熱い男だぜい!
この曲は東西抗争の中でも終盤の中核を担う曲として扱われていますが、2Pac本人いわく「自分とビギーの話」であって他人にとやかく言われたくなかったようです。
また、この2人の揉め事はメディアによって盛大に煽られ、誇張されて話が大きくなってしまい、ビギーとの対話は絶望的になってしまいました。
この頃、2Pacは大御所「クインシー・ジョーンズ」の次女である「キダダ・ジョーンズ」との交際が始まります。
自伝映画ではアフェニに彼女を紹介するシーンも存在します。
「All Eyes On Me」のリリースから2ヶ月後2Pacは自身のMCネームを「Makaveli」に改名し、「The Don Killuminati:The 7Day Theory」というアルバムの制作に没頭していました。
完成はしていたもののリリースされたタイミングは2Pacが亡くなった後になります。
1996年9月7日、ラスベガスにて友人のマイク・タイソンのボクシングの試合を観戦し、シュグが所有するクラブ「662」に向かう途中に何者かによりドライブ・バイを仕掛けられてしまいます。
すぐに病院に搬送されたものの、6日後の9月13日に帰らぬ人に。
世界は悲しみに包まれてしまいます。
このシーンは映画「All Eyes On Me」で詳細が詳しく描かれており、デスロウのスタッフが喧嘩に巻き込まれ、その仕返しに2Pacはカジノで乱闘騒ぎを起こしています。
要は映画での着地地点としてある程度「犯人であろう人物の特定」というものを描いています。
※2023年9月、27年の歳月を経て犯人が逮捕されました。
今回逮捕されたのはクリップスのメンバー「キーフィーD」という人物で甥のオーランド・アンダーソンと2Pacがトラブルになったことから報復により襲撃されました。
ちなみに「オーランド・アンダーソン」は既に故人となっていたため犯人特定に時間を擁していたようです。
キーフィーDは「サウスサイド・コンプトン・クリップス」の元リーダーであり、シュグは「モブ・ピル」というブラッズの元構成員でした。
この2つのギャングは当時、敵対関係であり、抗争中でした。
ちなみにシュグのクラブ「662」は携帯電話のキーで「MOB」になります。
2Pac亡き後の作品
2Pacが亡くなったあとも周囲は曲をリリースし続けます。
筆者はだいたい2000年前後にヒップホップに本格的にハマり始めたので当時は2Pacという人物がまだ生きているものだと思って作品を聴いていました。
つまりそれほど2Pac関連のリリースがあったということです。
2Pac亡き後の楽曲
2Pacが亡くなったすぐあとに先ほどのMakaveli名義のアルバム「The Don Killuminati:The 7Day Theory」がリリースされます。
1997年に未発表音源「R U Still Down?(Remember Me)」がリリースされました。
1998年に「Greatest Hits」
1999年に「Still I Rise」
2001年に「Until The End Of Time」
2002年に「Better Dayz」
2004年に「Loyal To The Game」
2006年に「Pac’s Life」が10年間の間にリリースされました。
更に公式なのか非公式なのかも怪しいRemix集やLive音源、トリビュートアルバムが大量にリリースされました。
2Pacの父親ビリー・ガーランドもトリビュートアルバムを出してたよね。売れてないけどね。
2Pacがレコーディングした楽曲は約700曲とされており、非常に多作家であり、制作スピードが早かったことが伺えます。
音楽ソフト(CD、レコード、デジタル)の総売り上げは7500万枚とも言われており、伝説のラッパーとして語り継がれています。
ちなみにヒップホップで最も総売り上げが高いアーティストはEminemで2023年までで2億枚を越えているらしいのだ。
Spotifyで最も再生されたアーティストはXXXTentacionなのだ!
*世界で最も売れたバンドであるビートルズは4億枚というとんでもない数字です。
2Pacの伝記映画
伝記映画「All Eyes On Me」は2017年6月16日(2Pacの誕生日)に公開。
映画の構想には7年がかかっており、舎弟グループOutlawsのメンバーが制作に協力しました。
2Pac役を決めるのに4年かかり、演技経験はなかったものの「ディミトリアス・シップ.Jr.」に決まりました。
ディミトリアス・シップ.Jr.の決め手は観てくれる人が瞬時に2Pacとして認識できるかどうかだったらしいのだ。
うん!確かに顔もそうだけど素振りも2Pacっぽいね。
キダダ・ジョーンズ役にも特に気を使って配役をしたそうです。
また、2Pacの体に入っていたタトゥーを再現するために色々な写真を見て研究したようです。
時代によって様々ですが、確認できたタトゥーは21個だったようです。
2Pacの生存説
1996年に惜しくも亡くなってしまった2Pacですが、「実は生きているのでは?」という説が度々浮上します。
同じく1997年に亡くなった盟友Notrious B.I.G.は生存説がほぼ無いのに対して2Pacは言われ続けています。
生存説の考察
「2Pacはマレーシアで生きている」と発言したジェイコブ(シュグ・ナイトの息子)はのちにプロモーションのために発言したとしています。
また、今も「ナバホ族がかくまっている」という噂や「現在はキューバで生活している」という噂も存在します。
確かに2Pacの宣材写真(アーティスト写真)や亡くなった後のアルバムのジャケットは生前の2Pacのイメージとは異なる写真がいくつかあります。
顕著なのが、アルバム「Loyal To The Game」のジャケットでは2Pacがメガネをかけています。
このメガネが単にオシャレとしてのメガネだったのか、視力が悪くてメガネをかけていたのかはわかりませんが、2Pacが生前にメガネをかけてるイメージはあまりありません。
自伝映画では終盤になるとメガネをかけているシーンがいくつかあります。
ココからは完全なる筆者の考察になります。
疑問点としては
・「仮に2Pacが生きていたとして隠れて生活することに意味があるのか…」
・「なぜSNSが普及した現代において未だに消息が掴めていないのか…」
理由についても
・「スターで居続けるのに疲れたから」というありそうでなさそうなふわっとした理由が囁かれています。
「スターで居続けるのに疲れたから」…という理由は「自分の命と引き換えにしても姿を隠す」というメリットは皆無だと思います。
疲れたのであれば引退し、生きながらにして他の国に移住すればイイだけだと思います。
スターだと自身で自覚しているのであれば、あんなに大々的に偽装する必要は無いです。
キューバでは動画も録られているようですが、単にそっくりさんを用意してスクープ映像を捏造しているようにしか見えません。
「キューバだったら身バレしない?」、「キューバでは知名度が低いから?」というのはスターであり、世界中で売れたアーティストが考えた逃亡劇、隠遁生活にしては浅はか過ぎると感じます。というかキューバ舐めすぎだろ!
現に生存説が囁かれている現状としてはわざわざ深夜で目撃者もあまりいない時間帯に狙う必要もなく、「確実に犯人が存在する」という証拠になります。
偽装して冤罪を償う人物が存在するとは到底考えられません。
FBIもだいぶ舐められてまんなぁ?ふっふっふっ。
また、キダダ・ジョーンズやケイシャ・モリスと言った2Pacが愛した女性たちを2Pacは隠遁先に連れて行っていません。
そういった女性に「今後一切会わない」というのは違和感でしか無いです。
普通、好きな子とは会いたいのだ。
さらに、晩年の2Pacはとにかくお金がありませんでした。
保釈金をシュグに出してもらわなければならないほどに。
自伝映画でもシュグに契約解除の話を持ち掛けた際、アルバムの売り上げに対して「制作費やプロモーション、ツアーでお金がかかり過ぎているからダメだ」的な話をされています。
故にいくら物価の安い土地に移住したとしても「嫌だからこの業界辞める」で通用する程、世の中甘くないと思います。
仮に「音楽プロデューサーになったのでは?」と思う人もいるかも知れませんが、「2Pacが2Pacの名前と看板を捨てたら」何が残るのでしょうか?
2Pacは元々才能のある人物であることは確かですが、そもそも「疲れた」が理由で引退した人物が自身の名前を出さずに「ここからまたお金を稼いでいく」というのはやはり頭の良かった2Pacが選ぶ選択肢とは到底思えません。
それこそブランディングに関わってくることなのでキッパリ否定できると思います。
「印税が入ってくるのでは?」という話になると思いますが、そもそもこの世にいない人物に毎月なり毎年なり贈与として送金していたらいつか税務署なり、銀行なりにバレると思います。
スイス銀行とかなら可能なのか?
しかし、実際にそういった些細なミス無く20年以上気付かれていないのであればある意味スゴイことだとは思いますが…。
いささかこれだけ世間を騒がせた人物がビザを取得していたら当局も気付くと思いますし、もしそうでなければ隠遁先では不法滞在者になってしまいます。
さらに獄中生活の中でリリックを大量に書き貯め、大量の本を読んだ2Pacはより高い思想を持っていたに違いありません。
この時2Pacは「マキャベリの君主論」や「孫氏の兵法」といったより実践的で包括的なアーティスト論や経営者としての戦略を本から学びました。
そこまで周到に準備された計画や思想を不意にする意味がないと思います。
故に2Pacが生きていて欲しい願望はありますが、生存説の希望は断固無いと筆者は考えています。
2Pacの最後の彼女?
「2Pacが最後に愛した女性はキダダ・ジョーンズである」…というのが一般的ですが、実はもう1人関係が噂される人物が存在しています。
それがIce Cubeの妹分である「Yo Yo」というフィメールラッパーです。
Yo Yoいわく「2Pacは全ての女性を愛しており、2Pacの周りにいた女性たちは皆2Pacを愛していた」と証言しています。
最終的に2PacとYo Yoは家族ぐるみの付き合いを始め、「まるで兄妹のようだった」とされています。
2Pacが亡くなる直前までYo Yoとのデートが目撃されており、病院で2Pacを最後に看取ったのは「キダダ・ジョーンズではなく、Yo Yoだったのではないか」という説も存在しています。
ちなみにYo Yoは現在、未来のラッパー、歌手、ダンサー、プロデューサーを育成するためのヒップホップカリキュラムを取り入れた授業をポモナ高校という所で教えています。
まとめ
世界で愛されたラッパー2Pac。
2Pacの人生はたった25年しかありませんでしたが、紆余曲折があり、通常の人の倍くらいの人生経験をしたんじゃないかというレベルの人物だと思います。
実際アーティストとしても下積み時代から換算しても7年程しか活動していません。
しかし、700曲以上を作り上げたということは4日に1曲ぺースで曲を作り続けてきたということになります。
それは本当に途轍もない数字だと思います。
人物像としてはプライベートでは「温厚で控えめな性格」でしたが、ラッパーとしては「2Pacという仮面をかぶり虚勢を張る」という2面性があった人物でした。
また、ビギーとの対比として「怒りの2Pac」、「冷徹のビギー」は2人にぴったりな2つ名だったりします。
まだ、しっかり2Pacの残した楽曲に触れ合っていない方はベスト盤からでも全然良いと思うので是非一度腰を据えて聴いて貰いたいアーティストです。
今回はとんでもなく長い講義になってしまいましたが、最後までお読みいただき本当にありがとうございまいた。
以上、2Pacについての講義でした。