N.W.A.について
N.W.A.=N*ggaz Wit Attitudes(怒れる黒人達)
彼らは何に怒り、何と戦っていたのか…
Gangsta Rapというサブジャンルを第一線まで押し上げた伝説的グループであるN.W.A.とはどんなグループだったのか。
2015年に公開されたN.W.A.の伝記映画「Straight Outta Compton」を観ていない人もこの講義を見ればN.W.A.の歴史がわかります。
逆に映画を観た人も時間の都合上なくなくカットされたであろうN.W.A.の知られざる歴史を知ることができると思います。本編との違いを探してみましょう。
今回の登場人物
・Eazy-E(イージー・E)(1964年9月7日生まれ~1995年3月26日没)
・Dr.Dre(ドクター・ドレー)(1965年2月18日生まれ)
・Ice Cube(アイス・キューブ)(1969年6月15日生まれ)
・MC Ren(MCレン) (1969年6月16日生まれ)
・DJ Yella(DJイェラ)(1961年12月11日生まれ)
・Arabian Prince(アラビアン・プリンス)(1965年6月17日生まれ)
・The D.O.C.(ザ・D.O.C.)(1968年6月10日生まれ)
・Jerry Heller(ジェリー・ヘラー)(1940年10月6日~2016年9月2日没)
1980年代末期、社会現象にもなったGangsta Rapの火付け役であるN.W.A.の講義になります。
今回の講義で得られる知識
- 知られざるN.W.A.結成秘話
- N.W.A.が世界に与えた影響
- 崩壊するN.W.A.
N.W.A.結成前夜
N.W.A.の地元コンプトンは貧困層やギャングが多く、犯罪率が非常に高い地域でした。
治安の良い日本に住む我々日本人からは想像も付かないほど治安が悪く、一時は金網が街の周囲に張られ通行書がないとコンプトンに自由に出入りできないほどでした。
Eazy-E、Dr.Dreと出会う
Eazy-Eは自身のレーベルRuthless Recordsを運営するまではドラッグディーラーとして名を馳せていました。
10代半ばからストリートでディールをしていたEazy-Eですが、ボディーガードをしてくれていた従兄が襲撃に遭い帰らぬ人になってしまったことをきっかけに合法的な別のビジネスでお金を稼ごうと考えます。
Eazy-Eは当時人気が加熱していたヒップホップに目を付け、一緒にヒップホップビジネスをしてくれる人物を探していました。
Eazy-Eはコンプトンの隣町のトーランスという地域(日系アメリカ人が多い地域)のローディアム・スワップミート(フリマ)によく出向いていました。
このフリマに出店していたレコード屋の店主スティーヴ・ヤノ(日系)のブースに毎週のように現れては「Dr.Dreという人物を探している」とヤノに伝えていました。
どれくらいか通うとついにヤノがEazy-EとDr.Dreが会う機会を与えてくれて晴れて2人は知り合いました。
Dr.Dreも当時所属していたWorld Class Wreckin’Cru(WCWC)での活動に限界を感じていました。
のちにDr.DreによってDJ YellaとArabian Princeも一緒に誘われて合流したんだよね。
ただ、その時に正式にRuthless Recordsと契約した訳ではなさそうなのだ。
ちなみにスティーヴ・ヤノはこのあとSkanless Recordsというレーベルを設立しています。
Skanless Recordsに所属したアーティストはDJ Tony-AやHI-C、Proper Dosなど、好き者にはたまらないアーティスト達を擁したレーベルでした。
Ruthless Records始動
最初期のRuthless Records(1986年設立)はEazy-Eの実家のガレージをスタジオとして利用していました。
Dr.DreとDJ Yellaは元々World Class Wreckin’Cru(WCWC)に所属しており、Ice Cubeはその下部組織ともいうべきC.I.A.(Cru’In Action)→旧Stereo Crewに所属していました。
C.I.A.はIce Cube、K-Dee、Sir Jinxの3人組でのちのIce CubeのクルーDa Lench Mobの前身となるグループでした。
この時Dr.DreはIce Cubeのリリシストとしての才能を見込んでRuthless Recordsのプロジェクトに参加するように頼みます。(当時Ice Cubeは大学生でした。)
映画「Straight Outta Compton」では端折られていますが、Dr.DreとDJ YellaがWCWCのリーダーであるアロンゾが経営するナイトクラブ「Eve After Dark」でIce Cubeにラップをさせていました。
Ice Cubeのラップは当時のヒップホップの流行曲のパロディで下品な内容だったため、店の悪評に繋がるとして辞めるようアロンゾに言われていました。
映画でのアロンゾはどこか悪役っぽく描かれていますが、実際にはDr.Dreが軽犯罪(信号無視とかスピード違反)で捕まった時に2回も保釈金を払ってくれていました。
3回目は流石に呆れたのか(夜中に電話が来て眠かったから断ったらしい)保釈金を払ってもらえず、3回目の保釈金を払ってくれたのがEazy-Eでした。
自伝映画でもこのシーンって一応描かれてるよね!
うむ。Dr.Dreの名誉を守ってなのか警察のお世話になってた感じ出してないけど…あのシーンは実際ムショ帰りなのだ!
Arabian Princeは1980年代初頭からDJ Princeとして活動しており、共に活動するEgyptian Lover(1963年8月31日生まれ)と名前の系統を統一?するためにArabian Princeに改名しました。
WCWCと同様にエレクトロヒップホップというジャンルで活動をしていました。
N.W.A.のGangsta Rap性とは真逆でしたが、Arabian PrinceはRuthless Recordsで「J.J.Fad/Supersonic」(1988年7月リリースのアルバム)をプロデュースし、ヒットさせた功績があります。
これはレーベルの運営資金を捻出させるのに大いに貢献しました。
「Boyz-N-The Hood」で成り上がる
「Boyz-N-The Hood」は元々NYのH.B.O.というグループに楽曲提供を行う予定でしたが、このH.B.O.というグループはレコーディングをドタキャンしてしまいます。
元々、Eazy-Eはラップをするつもりは無かったようですが、Dr.DreとDJ Yellaに説得され、自らラップすることになったという逸話があります。
(恐らくこの時は貸しスタジオを借りていたためドタキャンによる損害は避けたかったのかと思います。)
レーベルにとっての偉大な一歩である「Boyz-N-The Hood」のシングルは1987年の3月にリリースされました。
このシングルはHIP HOPチャートで18位になりました。
「Boyz-N-The Hood」の地元ヒット後、ヤノのフリマではN.W.A.関連のレコードやテープが飛ぶように売れました。
この売れ行きをみてヤノはN.W.A.のメンバーに別のミックステープを催促しました。
正規では無いもののDr.DreとDJ Yellaのミックステープをいくつかリリースします。
この非正規ミックステープのおかげでN.W.A.の地元でのプロップスを強固なものとしました。
「Boyz-N-The Hood」をリリースするタイミング辺りでMC RenがRuthless Recordsと取り込みます。
同時期、のちのマネージャーであるジェリー・ヘラーをWCWCのアロンゾに紹介してもらいRuthless Recordsに雇い入れます。
この時、レーベルとマネージャーの取り分は8:2と取り決めました。
ちなみにこの取り分はこの業界では真っ当な数字らしいです。
「Boyz-N-The Hood」の出だしの”Cruisin’Down The Street In My 64”というフレーズは「Red Hot Chili Peppers(レッチリ)」の「Special Secret Song Inside」という曲のライブでのイントロでサンプリングされています。
また、元「Three 6 Mafia」の「Koopsta Knicca」も「Back In The Hood」という曲でこのフレーズをサンプリングしています。
キャデラックの64年式とEazy-Eの生まれた64年にかかっていてのちのローライダー文化とGangsta Rapにおける「64年式のキャデラックが美化される」という現象を引き起こしました。
N.W.A.And The Posse
シングル「Boyz-N-The Hood」を含むコンピレーションアルバムである「N.W.A.And The Posse」を1987年11月にリリース。
ちなみにこのアルバムはRuthless Recordsでは無くMacola Recordsからリリースされます。
このコンピレーションアルバムは「Boyz-N-The Hood」をリリース後にRuthless Recordsがマコラとの流通契約を解除し、Priority Recordsに鞍替えした時にマコラに残っていた音源を集めて構成されており、マコラ発のコンピレーションアルバムでした。
ちなみにこのコンピレーションアルバムの再発版は「Straight Outta Compton」がヒットしたあと正式に再発され、その時はRuthless Recordsからリリースされています。
その際ボーナストラックを1曲追加しました。
このコンピレーションアルバムに参加している「Fila Fresh Crew」というグループにThe D.O.C.が所属しており、グループの解散後正式にN.W.A.と合流予定でしたが、1989年に交通事故に遭い、声が出しにくくなってしまいます。(しゃがれてしまった)
N.W.A.世界を席巻する
アルバム「Straight Outta Compton」は1988年8月にリリースされました。
エグゼクティブプロデューサーにEazy-E。
プロデュースはDr.Dre、DJ Yella、Arabian Princeが行い、
リリックはIce Cube、MC Ren、The D.O.C.が担当しました。
地元LAではすこぶる人気の高かったアルバムですが、当時はまだ東海岸が優勢な時世だったため、なかなか全国的なヒットとはなりませんでした。(NYのラジオ局は他の地域のヒップホップを基本的に取り上げないため)
メディアも地元で人気というだけで話題性も特に無いと判断してN.W.A.を取り上げませんでした。
しかし、そんなN.W.A.にも2つの転機が訪れます。
N.W.A.の2つの転機とは
1つ目の転機はテキサス州ダラスにあるKNONというラジオ局の「ライフ・イズ・ハード」という番組でラジオDJをしていた「ジェフ・ライルズ」の目に止まったということでした。
この番組はとにかくハードで際どい曲を扱う番組でした。
彼の元にN.W.A.のプロモーション用のテープが届いたのが昼頃でした。
そのためオンエアまでの時間が無かったため、オンエアされた曲は無修正のままでした。
曲をかけ初めて30秒後に問い合わせの電話(「コイツら誰だ?」と苦情の電話。)がラジオ局に大量にかかってきました。
この件でジェフはクビにされてしまいますが、ジェフの勇気のある行動のおかげでN.W.A.はLA以外で初めて聴かれる様になりました。
ちなみにジェフとN.W.A.の関係性はその後良好だったとされています。
2つ目の転機は収録曲の「F*ck Tha Police」に対して1989年8月にF.B.I.広報局の副長官だったミルト・アーレリッチが異議、不服申し立ての手紙をPriority Recordsに送りつけました。(実際には曲名は伏せていた)
このF.B.I.からの警告によりアルバムの注目がさらに高まり売り上げを伸ばし、N.W.A.はスターダムにのし上がりました。
え?F.B.I.がまさかのアルバムの告知をしてくれたってこと?!
Dr.Dreは当初「F*ck Tha Police」に対して良く思っておらず、Ice Cubeはこの曲をボツにしてしまいました。
しかし、Ice Cubeの友人に「カッコイイからこの曲絶対やった方がイイ」と言われ、リリックをゴミ箱から取り出して案を温存していました。
当時、Dr.Dreが制作の方向性を定めていたからDr.Dreがやると言わなければ曲は作れなかったようなのだ。
「Straight Outta Compton」のアルバム制作の佳境に入るとDr.Dreは別プロジェクトで次作であるEazy-Eのソロアルバム「Eazy-Duz-It」の制作に没頭していました。
Ice Cubeはここぞとばかりに「F*ck Tha Police」の案を再度メンバーにしてようやくこの曲を制作することが決定しました。
Ice Cubeの執念と友人の助言が無かったら名曲が世に出ることもなくN.W.A.の人気も話題性もそれほど無かったと思うと「Ice Cubeが頑張ってくれてよかった」と心底思いますね。
N.W.A.の何が聴衆を引き付けたのか
カリフォルニアやロサンゼルスと聞けば都会で華々しく見えると思いますが、実際にはコンプトンやワッツの様なゲットーが当時いくつも形成されていました。
ゲットーには犯罪やギャングは付き物であり、その現実=リアルをリポートしたのがN.W.A.でした。
ゲットーに住む下々の声は封じ込まれてしまう傾向があり、その代弁者としてN.W.A.は機能していました。
N.W.A.は差別や風評と戦ったグループであり、ゲットーの救世主でした。
この現象は「リアリティラップ」とも言われ、N.W.A.の台頭によりのちにGangsta Rapと名付けられました。
彼らが確かにゲットーで生まれ、育ち、生活をしているというリアルは主にゲットーとは無縁で対極に位置する人々(中産階級の白人の若者たち)に消費されることになります。
しかし、その過激さゆえに識者や批評家からは敬遠され、男尊女卑ともとれる高慢な態度も問題視されました。
このアルバムには「F*ck」というワードが134回、「Motherf*cker」というワードが73回、「B*tch」というワードが64回、「Sh*t」というワードが54回、「*ss」というワードが51回、「N*gga」というワードが45回も登場します。
いわゆるFワードを連発し、教育には絶対良くないのですが、アメリカが内包する問題点を鋭く貫いたストレートなリリックやスタイルは当時、非常にウケました。
そしてNYや東海岸主体のヒップホップ業界で初めて西海岸のヒップホップが認められたという歴史的なグループがN.W.A.なのです。
その後(1988年以降)N.W.A.が開拓したGangsta Rapは全国に波及し、様々な地域、国で模倣され、その地域や国で特色を生かした独自のスタイルを開拓していくことになります。
その一例としてG-FunkやDirty Southといったサブジャンルであったり、近年ではDrillというジャンルを開拓するきっかけになります。
N.W.A.がその後のヒップホップの在り方を変えたと言っても過言ではないかも知れません。
N.W.A.の分裂
順風満帆かと思われたN.W.A.ですが、一気にスターに登り詰めてしまったため報酬やメンバー間で不和が生じ、分裂は避けられませんでした。
相次ぐ脱退者
まず、「Straight Outta Compton」のリリースの少し前の1988年にArabian PrinceがN.W.A.から脱退しました。
「Straight Outta Compton」のジャケットには6人で写っていますが、自伝映画の方ではArabian Princeの存在丸ごとカットされています。
元々Arabian Princeはエレクトロヒップホップというスタイルで活動していたアーティストでした。表向きの脱退理由は「ギャングスタなリリックや方向性に同意できなかった」としています。
しかしArabian Princeは報酬に関しても疑問を感じていました。
映画でEazy-Eやジェリー・ヘラーにキレていたのはIce Cubeでしたが、実際に報酬関係で1番最初に揉めたのはArabian Princeでした。
続いてIce CubeがEazy-Eのソロアルバム「Eazy-Duz-It」と「Straight Outta Compton」のプロモーションツアー中にやはり報酬で揉めて1989年末に脱退。
Ice CubeはEazy-EとDr.Dreがラップするほぼ全てのリリックを描き、パフォーマーとしてレコーディング、ツアーに参加しましたが、Eazy-Eとジェリー・ヘラーから提示された契約書には32000ドルという不相応な額を提示されました。
不服に思ったIce Cubeはこの契約を拒否し、脱退に至りました。
同一の契約書を他のメンバーにも提示されましたが、Ice Cube以外は契約書にサインしました。
N.W.A. V.S. Ice Cube
1990年5月にIce Cubeの1stアルバム「AmeriKKKa’s Most Wanted」をリリースしていましたが、Ice CubeはN.W.A.への非難はしていませんでした。
しかし、1990年8月にリリースされたN.W.A.のEP「100Miles And Runnin’」では裏切り者のIce Cubeに対してN.W.A.が非難しました。
Ice Cubeの2ndアルバム「Death Certificate」に収録の「No Vaseline」ではN.W.A.を痛烈に批判しました。
N.W.A.は1991年5月に2ndアルバム「Efil4Zaggin」に収録の「Real N*ggaz」で「No Vaseline」へのアンサーを返します。
また、1990年9月には「ニューミュージックセミナー」というフェスでN.W.A.の弟分グループのAbove The LawとIce Cubeの弟分グループのDa Lench Mobが喧嘩をしたり、1991年1月Dr.DreはヒップホップショーのホストだったDee Barnes(ディー・バーンズ)という女性に暴行したりと問題が後を絶たない状態でした。
ディー・バーンズは当時N.W.A.を批判し、事故の影響で声が出しにくかったThe D.O.C.の声真似をするなどの挑発を繰り返したため、犯行に及んだらしいのだ。
Dr.Dreって普段スゴイ温厚な人らしいけど親友だったD.O.C.のことをバカにされたのは相当怒ってたんだね!
でも暴力はダメ!
Dr.Dreは「Efil4Zaggin」をリリース後、Ice CubeとArabian Prince同様、報酬への不満により脱退を決意するものの、契約に縛られていたためSuge Knight(シュグ・ナイト)に頼り半ば強引にRuthless Recordsから脱退しました。
シュグとDr.Dreは新レーベルDeath Row Recordsを設立。
事実上N.W.A.は解散になりました。
波及するディス合戦
1992年「Dr.Dre/The Chronic」をリリースし、のちにシングル化もされる収録曲「F*ck Wit Dre Day(And Everybody’s Celebratin’)」でEazy-Eを痛烈に批判しました。
これに対し、Eazy-Eも1993年「It’s On(Dr.Dre)187um Killa」というEPで徹底抗戦します。
収録曲「Exxtra Special Thankz」、「It’s On」、「Still A N*gga」、「Real Mathaphackikin G’s feat.BG Knocc Out&Dresta」で応戦。
うむ、Eazy-Eの4倍返しだ!
MC Renはこの時、Dr.Dreに執拗に責め立てるEazy-Eに流石に呆れてしまった様です。(2年口をきかなかったとされています。)
MC RenはEazy-Eとジェリー・ヘラー抜きでN.W.A.を復活させようと画策しますが、至りませんでした。
1993年5月にDr.Dreのシングル「F*ck Wit Dre Day(And Everybody’s Celebratin’)」のB面「Puffin’On Blunts And Drunkin’Tanqeray feat.Lady Of Rage&Tha Dogg Pound」ではKuruptがRuthless RecordsのAbove The Law、Kokaneに対してディスり、Dr.DreはEazy-Eと元々因縁のあったTim Dog(NYのラッパー)とLuke(マイアミのラッパー)に対してアンサーを返しました。
1994年4月、Kokaneのアルバム「Funk Upon A Rhyme」の収録曲「Don’t Bite The Phank feat.Cold187um(Above The Law)」にて「Puffin’On Blunts And Drunkin’Tanqeray feat.Lady Of Rage&Tha Dogg Pound」へのアンサーを返します。
1994年10月Death Row Recordsが監修した短編映画「Murdea Was The Case」のサウンドトラックの収録曲「Tha Dogg Pound/What Would You Do feat.Snoop Doggy Dogg&Jewell」でBG Knocc Out&Drestaに対してアンサーを返します。
1995年2月にEazy-Eが体調不良を訴え入院し、検査の結果HIVと診断されます。
1995年3月に病気を公表し、ファンへのメッセージを送り、3月26日に肺炎の合併症で亡くなりました。
以降、ディス合戦は幕引きとなりました。
映画「Straight Outta Compton」ではN.W.A.をジェリー・ヘラー抜きで復活させるという場面で体調不良を訴えていました。
N.W.A.の黒幕ジェリー・ヘラーとは
ジェリー・ヘラーは1960年代から主にロックミュージシャンのマネジメントをし、多くのバンドに成功をもたらしました。
1980年代に入るとヒップホップに目を付けWorld Class Wreckin’Cru(Dr.DreとDJ Yella)やC.I.A.(Ice Cube)のマネジメントをし、1987年からRuthless Records、N.W.A.のマネジメントを開始します。
Eazy-Eはジェリー・ヘラーを紹介してもらうためにWCWCのリーダーであるアロンゾに750ドルを支払ってジェリー・ヘラーをRuthless Recordsに迎え入れました。
ジェリー・ヘラーの功績
ジェリー・ヘラーと組んだRuthless Recordsはアイランドレコーズに売り込みに行き、最終的にプライオリティレコーズとの配給契約を交わすことに成功します。
ジェリー・ヘラーはとにかく映画でもIce Cubeの曲の中でも悪役として描かれますが、実際はマネージャーとしての手腕は確かでした。
レーベル運営においても不正は見つからず、正当かつ明瞭な会計をしていました。
Ice Cubeが言う「騙されている」という契約においても1988年当時に売り上げたアルバムに対しての報酬は少し遅れて報酬が入って来るのも当然のことだったりします。
ようは「売り上げと利益は別」だということ。
また、売り上げの分配をレーベルに25%、パフォーマーに25%、作詞家に25%、作曲家に25%と言った割合であればIce Cube自身が作詞し、ラップした曲に関して言えば50%の報酬を受け取ることになります。
前述の8:2という契約が正しければレーベルに入る25%のうち総利益に対して5%しかジェリー・ヘラーは受け取っていなかったということになります。
ややこしいのはN.W.A.のアルバムと言っても参加する人物によって報酬が変動するということです。
Dr.Dreも基本的に同じでパフォーマーとしてプロデュースもし、エンジニアとして在籍していたのでメンバー内で最も稼いでいましたが、「仕事量に対して報酬が見合わない」として脱退しました。
当然ジェリー・ヘラーは全力でDr.Dreの脱退を防ごうとしました。それはレーベルやグループのことを思っての行動であり、全力で自分のためでは無かったと思います。
また、レーベルの歌姫であるMichel’le(ミシェル)→Dr.Dreの元カノは当時Dr.Dreに暴力を振るわれていましたが、ジェリー・ヘラーはミシェルをDr.Dreの暴力から守ってあげていたようです。
また、ジェリー・ヘラーは心底Eazy-Eのカリスマ性に惚れこんでおり、Ruthless Recordsをなんとか売れさせるために奔走してくれていた人物でした。
じゃあ、ジェリー・ヘラーってスゴイ悪役として有名だけどホントはイイ人だったんじゃん!
うむ、そうなのだ。
あまりこういうのは言いたくないけど、Ice Cubeはとにかくジェリー・ヘラーを目の敵にしていた節があるから情報操作を行ったとしか考えられないのだ。
アーティスト主体で考えられる音楽業界ですが、ジェリー・ヘラーのような陰でアーティストやレーベルを支える裏方の存在があってこそアーティストたちがのびのびと音楽活動ができるのだと思います。
まとめ
ゲットーのリアルを鋭く貫いて世界を熱狂させたN.W.A._しかし、グループとして6人で過ごした時間はごくわずかであり、実質的に1stアルバムが最初で最後の傑作でした。
「娯楽として中流階級の白人のティーンエイジャーに最も聴かれていた」という皮肉も「F.B.I.の警告も最終的にプロモーションを手伝ってしまった」という皮肉も全てがヒップホップ的であり、カウンターカルチャーの醍醐味的なグループだったと思います。
映画では時間の都合上なくなくカットされてしまった6人→5人の物語でしたが、Dr.DreとIce Cubeの視点なのでシュグが案外イイ奴扱いされてたり(本当は超極悪)、アロンゾやジェリー・ヘラーが悪者扱いされてしまいましたが、それほど大きな脚色も無く結末がわかっていても見る価値のある映画だと思います。
今回はN.W.A.の歴史についての講義でした。