Dr.Dreについて
ヒップホップ界きっての名プロデューサー「ドクター・ドレー」。
アメリカ国内では勿論のこと日本でもヒップホップを少しでもかじったことがある人なのであれば少なくとも名前だけは聞いたことがあると思います。
DreはEazy-E率いるRuthless RecordsでGangsta Rapの隆盛の立役者であり、Suge Knight率いるDeath Row RecordsでG-Funkという更にGangsta Rap深化させたスタイルを推進した人物でもあります。
しかし、そんなDr.Dreにも実は下積みがありました。
また、ヒップホップ業界の長者番付では毎年ベスト3に入るほどの大富豪です。
Beats By Dr.Dreは34億ドルでApple社に買収されました。
Dr.Dreはいかにして今の地位を築いたのか、今回はそんなDr.Dreの全てを丸裸にしてしまう講義になります。
- Dr.Dreとは
- Dr.Dreの下済み時代
- 時代の寵児となったDr.Dre
Dr.Dreの人となり
DreはGangsta RapやG-Funkといったスタイルを普及、推進した人物でした。
大まかな経歴は
World Class Wreckin’Cru時代
N.W.A.時代
ソロ時代(デスロウ時代)
Aftermath時代(Dreのレーベル)
Dreのデスロウ脱退後、Gangsta RapやG-Funkと言ったスタイルのヒップホップは人気の陰りを見せ始め、衰退の一途を辿ります。
自身のレーベルであるAftermath Entertainmentでは「Gangsta Rapはもうやらない」と発言しており、新たな「Westside Funk(ウエッサイ・ファンク)」というべきスタイルを展開した人物です。
ヒップホップの歴史上、最も重要なゲームチェンジャーとされています。
自身の公式のフルアルバムは3枚しか出していませんが、携わったアルバムは半端じゃない数になります。
そしてそのほとんどをヒットに導いています。
Dr.Dreとは
Dr.Dreは1965年2月18日生まれでカリフォルニア州コンプトン出身。
本名は「Andre Romell Young(アンドレ・ロメル・ヤング)」。
Dreの父親はインディーズのR&Bグループ「Romells」のメンバーだったためミドルネームに「Romell」が入っています。
アメリカってそんな単純な理由でミドルネームとか付けてイイことに驚き。
1972年に両親が離婚し、母親は後に「Warren G」の父親と再婚しました。
1981年には16歳にして子供を授かり、父親になります。
しかし、その子供を育てたのはDreの母親でした。
Dreの息子は「Hood Surgeon(フッド・サージョン)」というラッパーなのだ。
Dr.Dreの下積み時代
DreはN.W.A.で活躍する前に下積みとも言える時代がありました。
World Class Wreckin’Cru(WCWC)
The Unknown D.J.とのユニットThe Mechanic
Brickhardという名義も存在します。
World Class Wreckin’Cru時代
学校の成績はあまりよくなかったDreでしたが、「The Eve After Dark(イブ・アフター・ダーク)」というクラブでDJとして活動し始めます。
この時、「The Unknown D.J.」、「DJ Yella」、「Alonzo Williams(アロンゾ・ウィリアムズ)」らと知り合います。
そしてLAのラジオ局「KDay」でYellaと共にミックスマスター(ラジオの選曲をする人)として働き始めます。
ちなみにDJ Battle CatはKDayの初代ミックスマスターとして働いていました。
DJ Battle CatはSnoop DoggのバックDJや昨今のDreとのプロダクションに参加しています。
1984年The Unknown D.J.とDreのシングル「Scratchin’100 Speakers」をSaturn Recordsからリリースしています。
Alonzo Williamsは1970年代にディスコDJとして名を馳せた人物でイブ・アフター・ダークのオーナーでもありました。
当時NYで流行っていたエレクトロヒップホップに影響を受け、LAでもエレクトロヒップホップを取り入れ、活動をしようとしていた時期でした。
「World Class Wreckin’Cru」(以下WCWC)に参加し、1984年にKru-Cut Records(Macola Records配給)を設立し、「Slice」というシングルをリリースします。
この時のメンバーがAlonzo Williams、Dr.Dre、DJ Yella、Cli-N-Tel(クリンテル)の4人。サブメンバーにはMichel’le(ミシェル)がいました。
1985年にアルバム「World Class」をリリースし、地元LAでヒットしました。
しかし、このアルバムリリース後、Cli-N-Telは方向性の違いを理由にグループを脱退します。
ちなみにCli-N-TelはDreの高校時代の友人でした。
1995年におそらく唯一のアルバム「Shinin’On The Funk」をリリースしており、Dreのヒット曲「Nuthin’But A G Thang」をほぼまんま使いした「Concrete Roots」という曲があります。
WCWCは1986年にメジャーレーベルの「Epic」と契約します。
Alonzo WilliamsはDreに他にラップができる人物がいないか尋ねました。
この時、DreのいとこのSir Jinx(当時高校生)がラップグループ「Stereo Crew」として活動していたことを思い出し、このグループにWCWCの楽曲制作を手伝わせました。
このStereo Crewの片割れはなんと若かりし頃の「Ice Cube」でした。
DreはIce Cubeが気に入ったため、イブ・アフター・ダークでレジデントDJとして働いている間、Ice Cubeにマイクを持たせ当時NYで流行っていた曲に合わせてフリースタイルでラップをさせてお客さんを喜ばせていたそうです。
Cli-N-Tel脱退後、WCWCには「Shakespeare(シェイクスピア)」が加入し、1986年に2ndアルバム「Rapped In Romance」をリリースしますが、すぐに古巣Kru-Cut Recordsに戻ってしまいます。
Stereo Crewも1986年にシングル「She’s A Skag」をリリースさせてもらえますが、残念ながら鳴かず飛ばずでした。
1987年、MC Kid Disaster(現K-Dee)を加え、「C.I.A.(Cru’In Action)」を結成させ、Dreがプロデュースし「The CIA」というシングルをリリースします。
The Mechanic時代
1986年頃からはWCWCと並行してDreはThe Unknown D.J.が設立したTechno Hop RecordsでThe Unknown D.J.と「The Mechanic」というDJ/プロデューサーユニットを結成しました。
The Mechanicのシングル「Sweat」は1986年にリリースされ、同年「Lay Law/What’s Your name」をThe Mechanicがプロデューサーとして参加しています。
また、1987年にはThe Unknown D.J.と「Telesis featuring Brickhard ,The Mechanik And Frends」という名義でKru-Cut Recordsから「Volume1/Volume1 1/2」というEPをリリースしています。
この「Brickhard」というのはおそらくDreの別名です。
Dr.Dreの転機
DreはWCWCのリリースする曲やステージ衣装が気に入らなかったと言われています。
WCWCを抜けたかったとも言われています。
Dr.Dreは周りの人たちから「温厚な性格」と言われることが多いのですが、実は当時付き合っていた彼女であるMichel’leに暴力を振るうなど少し粗暴な一面もあったようです。
また、交通違反を繰り返し行っていたため、逮捕されることもしばしばあったようです。
交通違反で何度も捕まっていたDreでしたが、2回はAlonzo Williamsに保釈金を払ってもらい出所していまいした。
3回目を催促した際、ついにAlonzo Williamsも呆れたのかさすがに助けなかったそうです。
3回目は夜中に電話がかかってきたためAlonzo Williamsは「眠いから無理!」と言って電話を切ったそうです。
この時保釈金を払ってくれた人物こそ「Eric Lynn Wright(エリック・リン・ライト)」こと「Eazy-E」でした。
Eazy-Eとの出会い
この頃のEazy-Eはディーラーを辞め、合法的なビジネスに投資してお金を稼ぎたいと思っていました。
そしてヒップホップに目を付け、知り合い(スティーブ・ヤノ)を通じてDreを紹介してもらいました。
DreはEazy-Eに借りを返すためにプロデューサーとしてEazy-Eが設立したRuthless Recordsで働き始めました。
ひょんなことからEazy-E自身がラッパーとしてデビューすることになり、1987年にDreプロデュースでシングル「Boyz-N-The-Hood」をリリースすることになります。
このシングルがビルボードHOT100というチャートで50位に入る大健闘を見せます。
続く「Panic Zone」、「8Ball」、「Dopeman」はRuthless時代のかなり初期のプロデュース作品であり、Arabian Prince、DJ Yella、Dr.Dreのコラボ作品でした。
また「Panic Zone」以外はIce Cubeがリリックを書き、「Krazy Dee(Hispanic Zone)」が「Panic Zone」のリリックを書きました。
他にものちのDr.Dreの親友にもなるThe D.O.C.(当時はDoc T)率いるテキサス出身の3人組グループ「Fila Fresh Crew」や「Ron-De-Vu」、3人組グループ「Rappinstine」など続々と周りに仲間が集まってくるようになりました。
また、この頃からN.W.A.と名乗るようになり、Eazy-Eはジェリー・ヘラーにマネジメントを依頼し、新たに最年少メンバーMC Renをグループに迎えました。
N.W.A.時代
1988年、歴史的名盤である「Straight Outta Compton」がリリースされましたが、最初の内は地元LAで人気を博しているだけでした。
2つの転機を経て全国区の人気を得たN.W.A.ですが、1988年にArabian Prince、1989年にIce Cubeが脱退していきました。
1990年、Ice Cubeはソロアーティストとしてアルバムの制作に取り掛かります。
Ice CubeはプロデューサーとしてDreに依頼しますが、ジェリー・ヘラーとEazy-Eに阻まれてしまいます。
Dre自身はIce Cubeとアルバムの制作をしたかったようなのだ。
N.W.A.は1990年、EP「100Miles And Runnin’」をリリースし、Ice Cubeを激しくディスりました。
1991年N.W.A.の2ndアルバム「N*ggaz4Life」をリリースし、このアルバムを最期にDreもN.W.A.から脱退します。
Ruthless Records時代
Eazy-Eのアルバム1988年のアルバム「Eazy-Duz-It」をN.W.A.のアルバムと平行して制作していたDre。
また、The D.O.C.が1989年にリリースしたアルバム「The D.O.C./No One Can Do It Better」もDreが全面的にプロデュースしました。
このアルバムはG-Funkの礎的なアルバムとして認知されています。
また、この年に彼女のMichel’leのアルバム「Michel’le」のプロデュースにも参加しました。
1991年にはヒップホップのレーベルとしては異色のフルート奏者のJimmy Zのアルバム「Musical Madness」に参加しました。
また、この時プロデューサーでベーシストの「Colin Wolfe」との仕事をきっかけに交友を深めました。
「Po’,Broke&Lonely?」という3人組R&Bグループの1992年のアルバム「No Money No Honey」を共同制作しています。(レコーディング自体は脱退前の1991年)
DreはN.W.A.の2ndアルバム「N*ggaz4Life」リリース後、確固たるリリシスト不在のN.W.A.に対して限界を感じていました。
また、金銭面に関しても超多忙だった自身の仕事に対しての対価にも不満を感じていました。
そのことをSuge Knight(シュグ・ナイト)に相談し、Ruthless Recordsとの契約解除の交渉を依頼します。
Death Row時代
Ruthless Recordsから脱退したDreは新しいビジネスパートナーであるシュグと1991年に「Death Row Records」を共同設立します。
そして満を持してリリースされたソロアルバム「The Chronic(1992年)」がスマッシュヒットします。
The Chronicが受け入れた背景
いわゆる「G-Funk」は車社会であるアメリカで「ドライブのお供」として重宝されました。
それまでのヒップホップに比べてゆったりとしたテンポになり、「タテノリ」から「ヨコノリ」の音楽に塗り替えました。
ドライブに最適なこのテンポ感はドライバーにとって心地が良かったらしいです。
このアルバム以降ヒップホップ業界全体がこのG-Funkブームに乗っかりテンポがゆったりしてメロウな曲が増えました。
この頃のヒップホップはBPM90~96位の曲が多かった印象があるのだ。
The Chronicの制作秘話
このアルバムの制作には先述のColin Wolfe、Daz、Warren Gが参加し、参加アーティストも積極的に新人を採用しました。
縁が縁を呼ぶ参加ラッパーたちとのなりそめ
異母兄弟のWarren GはDreに友達のNate DoggとSnoop Doggy Doggを紹介。
ちなみにこの時Warren G、Nate Dogg、Snoop Doggy Doggの3人は「213」というグループを組んでいました。
N.W.A.の伝記映画「Straight Outta Compton」でもしれっとこのシーンが描かれています。
Snoop Doggy DoggのいとこのRBXとDaz、Dazの友達でDogg Poundの片割れでもあるKurupt。
先述のR&BグループのPo’,Broke&Lonely?のRuben CruzやテキサスのGeto BoysのBushwick Billもアルバムに参加。
Dreに気に入られデスロウ入りしたフィメールラッパーLady Of RageとシンガーのJewellも参加。
アルバム収録曲の制作はDreの自宅で行われていました。常時20人位の人が出入りしていたそうで毎日のように若いラッパー達が遊びに来てはくだらない雑談を交えつつ、遊び感覚で曲を制作していました。
この遊んでいる中で突出した才能を発揮した人物がSnoop Doggy DoggとWarren Gでした。
Snoop Dogg
Snoopはラップの書き方を改めてThe D.O.C.に教わってこの時メキメキラップの腕が上昇しました。(The D.O.C.は喉が事故で潰れてしまったため、裏方で制作の協力をしていました。)
Snoopはアルバムの全16曲中11曲(IntroとSkitも含む)に参加しています。
のちにSnoopの1stアルバム「Doggy Style」では見事なコンビネーションを見せSnoopを一躍スターへと導きます。
Warren G
Warren GはDre宅の機材を触って遊んでいました。
Dreはこの時Warren Gに機材の使い方を少し教えてあげました。
Warren Gは飲み込みが早く、その後も機材の使い方を勉強し続けました。
Dreは「もし、200万枚売る男だとわかっていたら本気で教えてあげた」とのちのインタビューで語っています。
これはWarren Gの1stアルバム「Regulate…G Funk Era」のことであり、実際にDreの「The Chronic」よりも実は売れています。
また、「Warren GはDreの真似」と世間で批判されていたことに対してDreは「彼のスタイルはオリジナルであり、サウンドを含めたその全てを自分でプロデュースしてイイものを作っている」と評価しています。
デスロウでのプロデュース業
ソロアルバムだけでなくDreはプロデューサーとして様々なアーティストに楽曲提供やデスロウのプロジェクトも担ってきました。
1992年に映画「Deep Cover」のサウンドトラックに参加し、映画と同名曲の先行シングル「Deep Cover」はSnoopとの一番最初のコラボ作品とされています。
「The Chronic」よりも前にリリースされていたため、Snoopの初お披露目の楽曲として機能しました。
ということはDreのアルバム「The Chronic」と「Deep Cover」は同時進行だったんだね!
1993年にはDreが「Snoop Doggy Dogg/Doggy Style」をプロデュースし、Snoopを一躍人気ラッパーへと育てあげます。
勢いに乗る1994年にデスロウは2本の映画のサウンドトラックを手掛けました。
とくに映画「Above The Rim(1994年)」ではDreがサウンドトラックの総監督となり、プロダクションをまとめ上げていました。
この映画には2Pacも俳優として参加していましたが、のちの2Pacの人気曲でもある「Pain feat.Stretch」は初版では収録されませんでした。(2Pacのデスロウ入りは1995年の10月。)
Dreは「Pain」という曲が映画にあっていないと判断し、サウンドトラックに収録することを嫌がったと言われています。
1995年にはDazとKuruptのユニットDogg Poundの1stアルバム「Dogg Food」がリリースされ、1stにして最高傑作との呼び声も高いアルバムです。
「The Chronic」、「Doggy Style」でもDazとDreのコラボはあったものの、「Dogg Food」では最初で最後とも言うべき完ぺきなコンビネーションを披露しています。
この年の後半にはデスロウが2Pacを獲得し、Dreが制作中の楽曲である「California Love」にあとから2Pacが参加しました。
2Pacの1996年のアルバム「All Eyes On Me」では「California Love」のRemixが収録され、「Can’t C Me」という曲をDreがプロデュースします。
意外にも2PacとDreが一緒に作った曲はこの2曲しか公式には発表されていないのだ。
この時、Dreはデスロウを離れ、自身のレーベルである「Aftermath Entertainment」の立ち上げに注力している時期でもありました。
故に1996年にリリースされたSnoopの2ndアルバム「Dogg Father」には公式には一切参加しておらず、1996年3月をもってデスロウから脱退します。
Dr.Dreの独立
Dreは1996年に「Aftermath Entertainment」を設立します。
Snoopは1997年にデスロウを脱退し、No Limit Recordsに移籍。
SnoopとDreに確執があった訳ではありませんが、なぜかこの時期はお互い距離を取っていました。
デスロウ脱退理由はシュグのいじめ?
Dreがデスロウを脱退した理由は様々あるようですが、一番の理由はシュグの「暴君ぶりに呆れたから」だと言われています。
デスロウ設立当初からDreはシュグからいじられ続けていたようです。
まぁ、Ruthlessとの縁切りの際にシュグに借りがあるからなんとなく上下関係ができちゃったんだろうね。かわいそうに…
ちなみにシュグ・ナイト(1965年4月19日生まれ)はDreとタメなのだ。
元々、シュグに手助けをしてもらってRuthless Recordsから逃げたDreですが、今回はほぼ自力でデスロウから逃げることになりました。
正確では無いかも知れませんが、実際にDreがデスロウでプロデュースしていた楽曲の権利(収益)は全てデスロウに帰属されたようです。
1996年11月にデスロウからリリースされた「Death Row Greatest Hits」には33曲中13曲がDreが関わった曲でした。
ちなみにN.W.A.を激しくディスったIce Cubeの1991年の楽曲「No Vaseline」をシュグは何の脈絡も無くしれっと収録し、Dreに対しての嫌がらせを敢行しているのだ。
他にもデスロウはSnoopとDreの未発表音源を勝手に(レーベルに権利はある)リリースしたりとシュグは脱退者にたいしての嫌がらせを次々に行いました。
Dreの謎のコンピレーションアルバム?
Triple X Recordsという主にパンクバンドやチカーノ系(メキシコにルーツを持つ人たち)のアーティストが多く所属したちょっとやんちゃなレーベルから1994年に「Concrete Roots」がリリースされました。
Dreがプロデュースした主に未発表曲を集めたコンピレーションアルバムであり、先述のWCWCで一緒に活動していたCli-N-TelとThe D.O.C.が深く関わったアルバムでした。
売り上げは地味ですが、WCWCファンやN.W.A.ファンにはたまらない作品であると言えます。
また、1996年にも「First Round Knock Out」というコンピレーションアルバムがTriple X Recordsからリリースされていてこちらも地味な売り上げでした。
恐らく既存曲のみで構成されており、謎コンパイルが目立ちました。
一部ではAftermath Entertainmentを設立するための資金調達や最初期のAftermath Entertainmentが財政難であることから曲の権利をTriple X Recordsという謎なレーベルに譲渡し、小銭稼ぎをしたのでは無いかと噂されてしまいます。
Aftermath Entertainmentの設立
Aftermath EntertainmentはユニバーサルミュージックグループのInterscope Recordsの子会社として設立されました。
DreはAftermath Entertainment設立時にソングライター兼プロデューサーのMel-Manを獲得しました。
Mel-Manは1991年に「The Mel-Man Delivers」というアルバムや1993年に「Knock’Em Off」というシングルをリリースしています。
プロデューサーとしてはDreの右腕としてアルバム「2001」を始め、Eminem、Xzibit、Busta Rhymesのプロデュースを行った人物です。
Ice CubeのLench Mob Recordsやデスロウで仕事をしていたプロデューサーBud’daをAftermath Entertainmentに引き込みました。
Ice CubeやWestside Connection、Xzibit、Aaliyah、King-T、Busta Rhymesなどの楽曲に関わったプロデューサー。
2000年~2002年までレジェンドラッパー「Rakim」もAftermath Entertainmentに所属しましたが、リリースはされませんでした。
Dreと東西抗争
Aftermathが設立された1996年はメディアが盛大に煽った「東西抗争」が苛烈な時期に差し掛かっており、両海岸の雰囲気は過去最悪な状況になっていました。
Dreは「東西抗争」を否定しつつ、両海岸の和平を願う「Dr.Dre Presents:The Aftermath」というコンピレーションアルバムを1996年の11月にリリースします。
先行シングルの「East Coast/West Coast Killas」はGroup Therapyという東西のアーティストが参加したユニットの楽曲です。
西海岸からRBX、B-Real(Cypress Hill)が参加。
東海岸からはKRS-One、Nasが参加。
超豪華メンバーが集まったユニットでしたが、このコンピレーションのみのユニットでその後は何もリリースされていません。
Dreのソロ曲はシングルにもなったBeen There,Done Thatの1曲のみでした。
Aftermath Entertainmentの立ち上げから間もない時期であったためか、「The Chronic」よりも大幅に売り上げを落としてしまいます。
また、1997年にはGroup Therapyの東海岸版ともいうべきNas、Foxy Brown、AZ、Natureが参加したドリームユニットであるThe Firmのアルバム「The Album」をAftermathからリリースするもやはり売り上げは伸び悩みました。
Aftermathの快進撃
ここまでイイ所無しのAftermath Entertainmentでしたが、1999年を皮切りに転機が訪れます。
転機1:Eminemを獲得
1998年、Eminemがラップオリンピックで準優勝に輝き、Interscope Recordsの社員が「Slim Shady EP」のデモを持ち帰ってきました。
そのデモはInterscope RecordsのCEOのジミー・アイオヴィンに渡され、ジミー・アイオヴィンはそのデモをDreにも聴かせました。
デモを聴いたDreはEminemを気に入りましたが、Dreの周辺人物はEminemが白人だったこともあり、Aftermath Entertainmentに引き込むのを反対します。
しかし、Dreはその反対を押し切り「Slim Shady EP」の拡張版である「Slim Shady LP」をプロデュースし、1999年2月にリリースします。
Dreの読みは当たり、「Slim Shady LP」はスマッシュヒットし、Eminemを一気にスターに押し上げました。
転機2:最強の布陣
1999年5月、Snoop Doggのアルバム「No Limit Top Dogg」に収録された「B**** Please feat.Xzibit、Nate Dogg」をDreがプロデュースし、黄金コンビが復活したという話題性もあり、こちらもスマッシュヒット。
Ice Cube主演・企画の映画「Friday(1995年公開)」の続編である「Next Friday(2000年公開)」のプロモーション兼サウンドトラックの第一弾シングルとしてリリースされた「Chin Check(1999年8月にリリース)」はなんとN.W.A.名義の楽曲でした。
残念ながらEazy-Eは1995年に既に他界しており、DJ Yellaも不参加でしたが、その穴をSnoop DoggとMel-Manが埋め、新生N.W.A.の復活を示唆しました。
2000年にリリースのIce Cubeのアルバム「War&Piece Vol.2」に収録の「Hello」でもDreとMC Renがfeat.しており、Mel-ManもEminemもリリックのライティングに参加しています。
N.W.A.のファンたちは幻の3rdアルバムに期待を寄せましたが、アルバムはリリースされることはありませんでした。
ちなみに2000年頃にリリースされる予定だった新生N.W.A.のアルバムのタイトルは「Not These N*ggas Again」だったのだ。
タイトルまで決まっていたのにリリースはされなかったんだね。残念…。
2ndアルバム「2001」
1998年頃から続くDre関連の楽曲のリリースラッシュ+盛り上がりの勢いに乗じ、1999年の11月に待望のDreの2ndアルバム「2001」がついにリリースされます。
このアルバムはヒップホップにとって歴史的なアルバムになりました。
元々このアルバムのタイトルは「2000」でしたが、シュグの嫌がらせに遭いリリース前に急遽「2001」に変更されました。
シュグの嫌がらせ?!
デスロウは1999年5月に「Suge Knight Represents:Chronic2000-Still Smokin’」をリリースしました。
タイトルがDreをイメージさせる様な単語で意図的に付けられており、ファンたちは混乱しました。
「こんなヘンテコなアルバム、売れる訳ないだろ」
と、思いきやビルボードチャートでも11位、HIP HOPチャートでも3位になるなど意外にもセールスはしっかりあったりします。
「そんな付け焼刃のアルバム、内容終わってるだろ」
と、思いきや意外に豪華な参加アーティストやデスロウの最後期アーティストの奮戦を噛みしめることができ、貴重な資料としての役割も担っており、一部のマニアからは絶大な支持を集める作品です。
ただ、一般的には批判されたアルバムです。
Aftermath Entertainment包囲網とも言うべきコンピレーションアルバムであり、Snoopのモノマネラッパー「Top Dogg」や2Pacのモノマネラッパー「Realest」が参加。
また、2Pacが生前親交があったNaughty By NatureのTreachやGeto BoysのScarfaceが参加。
415のRichie Rich(Snoopの憧れの存在)、Dogg PoundやSoopaflyのようなSnoopゆかりの人物も参加。
Dreの元カノMichel’le、デスロウ時代Dreと楽曲制作に人知れず携わったDJ Quik、Dreの作詞を担当したこともあるJ-Flexxなどゆかりのある人物をフューチャーしたアルバムでした。
DJ Quikとシュグは友達なのだ。
デスロウの初期プロダクションには所属レーベルの関係で名前を伏せて協力していたのだ。
白人ラッパーMillkboneのシングルにもなった「Presenting Millkbone(Eminem Diss)」は言わずもがなEminemをディスった曲も収録しています。Eminemの微妙なモノマネ用いた作品。
しかし、Eminemが「Just Don’t Give A F***」(白人ラッパーをディスるというメタな曲)で先に仕掛けてきたので実際にはアンサーソングになるようです。
ちなみにEminemからのアンサーは無かったので2001年に「Xcaliber Entertainment」+「Lightyear Entertainment」からリリースされたアルバムのシングルで「Dear Slim」という曲で再アンサーしているようですが、俄然無視されていました。
「2001」のハイライト
「2001」はシュグの嫌がらせにも屈せず全世界で支持され、特にシングル化された「Still D.R.E.」や「Next Episode」、「What’s The Difference」は日本のクラブシーンにおいてもアンセム化し、Dreの復活を提示しました。
「2001」でDreが提示したG-Funkの進化系である「ウエッサイ・ファンク」のお披露目にはぴったりなアルバムであり、「Still D.R.E.」と「Next Episode」はその最たる楽曲だったと個人的には思います。
生楽器を駆使したシンプルな構成ではありますが、DreとSnoopのフロウが冴えわたる実に明瞭な楽曲たちだと思います。
また、「2001」のプロモーションとしても大いに機能したであろうDJ Poohが制作した映画「The Wash(2001年公開)」はDreとSnoopがW主演しました。
さらにDreは「The Wash」のサウンドトラックにも参加し、シングル「Bad Intentions Feat.Knoc-Turn’al」をリリースしました。(日本では地味目なKnoc-Turn’alのクラシック「STR8 West Coast」も収録。)
「2001」のリリース後は自身のツアーに加え、Eminemの発掘以降は50Cent、G-Unit、The Gameと続き、弟子たちのプロデュースや社長としてアルバムのリリースの管理を行っていきました。
Dreの最終作とは
Dreは次のアルバムを最後に第一線を退く意向をかなり前から示していました。
ファンからは惜しむ声が多く上がりましたが、肝心の引退作が全然リリースされませんでした。
Detox Compton
Dreは次作3rdアルバム「Detox(仮)」を見据えたシングル「Kush feat.Snoop Dogg,Akon」を2010年11月にリリース。
2011年2月には「I Need A Doctor feat.Eminem,Skylar Grey」と立て続けにリリースしますが、アルバム自体のリリースはされませんでした。
この頃、Dreは「Beats」というヘッドホンの開発、改良に勤しんでいたため、音楽活動を実質的に休業していました。
2015年8月についに待望のDreの3rdアルバム「Compton」がリリースされました。
前作「2001」から16年の歳月を経てリリースされた正真正銘のDreサウンドではあるもののアルバムの形態としてはコンピレーションアルバムでした。
「Detox」は最終的にボツになりました。
以前Dreは「Detoxはいつリリースするのか」というメディアの質問に対して「制作は最終段階である」と伝えていました。
「Compton」の制作時期が2013年頃からということを考えると「Detox」で制作された楽曲は基本的に未発表のままなのはファンとしては惜しいですね。
待望のアルバムだったものの時代の流れなのかビルボードチャートでは総合2位、HIP HOPチャートで1位と健闘を見せますが、ゴールド認定に留まりました。
最終アルバムを終えて
Dreは3作目のアルバムが自身がリリースする最後のアルバムと宣言しており、2015年以降アルバムの情報は出ていません。(噂はちょこちょこ出ていますが真偽のほどは...)
しかし、アーティストへの楽曲提供は行われており、ある程度の露出もあります。
記憶に新しい2021年のスーパーボウルのハーフタイムショーではDreの腹心とも言うべき豪華なメンツとのコラボで健在っぷりをアピールしました。
おそらく今後も楽曲提供やツアーでDreの楽曲を聴くことができると思います。
Dre印のヘッドフォン
Dreは2006年頃からBeats Electronicsという会社を設立し、ヘッドホンとイヤホンの開発、販売を行ってきました。
Beats By Dr.Dre
2009年には大手PC会社の「ヒューレット・パッカード社(HP)」と提携し、HPのPCにBeatsのヘッドセットを付けたバンドル版の販売を開始しました。
2011年には「ステランティスN.V.社」が所有するブランド「クライスラー」の「300S(別名:ランチア・テーマ)」という車にBeatsのスピーカーが搭載されました。
2014年にはApple社が34億ドルという巨額でBeatsを買収しました。
Dr.Dreの仕事
ラッパーとしても表舞台に立つDre。
しかし、役でいうなればDreはプロデューサーとしての側面が強い人物です。
ゴーストライターを肯定
Dreは基本的にリリックを書きません。
作詞の協力、共同執筆はしていますが、基本的に全て自身で書いたことはおそらく無いと思います。
しかし、いわゆるゴーストライターの存在を隠しもせず、むしろ肯定しています。
WCWC時代のDreのライターはDre自身とDJ Yella、Shakespeare。
N.W.A.時代のDreのライターはIce Cube、The D.O.C.、MC Ren。
Death Row Records時代のDreのライターはSnoop、J-Flexx、The D.O.C.。
Aftermath EntertainmentのDreのライターはEminem、Snoop、Hittman。
と、基本的に弟子や側近達に書いてもらっていました。
ただ、Dreの本業はプロデューサーであり、パフォーマーやライターではありません。
Dreの仕事は一貫してプロデューサーなのです。
そもそもプロデューサーとは?
「プロデューサー」と一括りにしていますが、仕事内容は「ただ責任者として名前を載せている」場合や「監督(ディレクション)」であったり、「ビート(トラック)制作」、「プロジェクトの方向性、音の方向性を決める」など様々です。
Dreはその内の監督として方向性を決めている人になります。
実際、作曲作業をしていますが、ラフに作って後でチーム全体で音を詰めていく作業を主に行っています。
故にDreのアルバムでは大量の人員が割かれ、クレジットも膨大な数になります。
通常のアーティストのアルバムのクレジットがドラマのエンディングクレジットだとするとDreのアルバムのクレジットは超大作映画のエンディングクレジットのような量になります。
「2001」に収録の「Still D.R.E.」は極端に音数が少ないのにも関わらず、日本でもクラブアンセムになる程のキラーチューンになり得た理由は「覚えやすいメロディ」と「圧倒的な音の厚み」だと思っています。
実際「Still D.R.E.」にはDreを含めて10人のチームで制作されています。
G-Funkがトラック全体の音数で音の厚みを上げていたとすると
「Still D.R.E.」は音の粒、一音一音を大切にし、音の厚みを上げています。
つまり、1992年と1999年では全く逆の手法を用いてDre印のヒップホップを構築しています。
Dreが使用した機材
一部ではありますが、Dreが使用してきた機材とソフトは意外にシンプルだったりします。
MPC3000
TR-808
E-mu SP-1200
Mini Moog
Pro Tools
これを実機でしかも自前で所持していたと考えるとかなり本格的な機材マニアだったと思います。(これら以外にも所有している機材はいっぱいあります。)
また、グランドピアノを自宅に置いてあるらしいのですが、「どんだけ家広いんだよ!」ってレベルじゃないと置けないです。(筆者の実家談。)
いや、Dreはセレブだから普通じゃね?
パパの実家は貧乏のくせにグランドピアノとか置くから狭くなるのだ!
弟子たちの育成
Dreはプロデューサーとして「アーティストのフックアップの手法」も実に巧妙に仕組んでおり、策士としての手腕も持ち合わせています。
成功パターン
1992年、Snoopとサウンドトラックのシングル「Deep Cover」で初めてSnoopをお披露目し、アルバム「The Chronic」ではSnoopを大々的にフューチャーしました。
1993年にSnoopのソロアルバム「Doggy Style」をリリースさせました。
収録曲の「Who Am I(What’s My Name?)」では”DOGG”、”SNOOP DOGG”というワードを曲中何度も連呼させリスナーに「刷り込み戦略」を駆使しています。
この曲のサンプリングの元ネタは「George Clinton/Atomic Dog」と「Funkadelic/Knee Deep」であり、「Funkadelic/Knee Deep」はアルバムの2曲目「G-Funk Intro」でも元ネタとして使われており、アルバムを1枚通して聴いた時に既聴感を演出しています。(ほぼ精神操作に近い。)
1999年にもかなり似たようなケースとしてEminemのデビュー時にも同じような「刷り込み戦略」を用いています。
1999年2月にEminemのアルバムを先行でリリースさせ、Dreの「2001」を11月にリリースし、「2001」ではEminemを大々的にフューチャーしました。
「Slim Shady LP」に収録の「My Name Is」も”Slim Shady”というワードが何度も何度も繰り返し使われています。
また、Snoop同様”~My Name~”というワードがタイトルに冠しているというのも特徴のひとつです。
しかし、この2人がスターになれただけであり、実際は側近であっても売れなかったアーティストも相当数いるのも事実です。
失敗パターン
明確な負け組とされているのが
「Knoc-Turn’al」
「Hittman」
「6Two」
というラッパーたちです。
Knoc-Turn’alはロングビーチ出身で「第2のSnoop」と目されたラッパーであり、界隈では注目を集めましたが、Aftermath EntertainmentではなくElecktraから2004年にリリースされた「The Way I Am」はDreの助力が足りずメガヒットには至りませんでした。
2002年にリリースされる予定だった「Knoc’s Landin」はDreの助力がガッツリあったもののアルバム自体がお蔵入りされてしまい、代わりに「L.A.Confidential Presents Knoc-Turn’al」というEPでのリリースになってしまいました。(2022年にデジタル配信でフルアルバムとして再リリースされています。)
リリシストとして期待されていたため、非常に惜しいラッパーでした。
HittmanもKnoc-Turn’al同様、「2001」で9曲に参加したのにも関わらず、芽が出なかったラッパー兼ソングライターになります。
Aftermath Entertainmentに所属していたものの、Aftermath Entertainmentではアルバムをリリースできず、2005年にSick Bay Recordsで「Hittmanic Verse」をリリースするも惨敗。
6TwoはThe D.O.C.が発掘してきた人物だと言われています。
元々アンダーグラウンド志向のアーティストなのか、自身で「6Two Productions」というレーベルを設立するものの「Mac-A-Roni And G’s」を2005年にリリースするもそもそも配給量が足りなかったのかこちらも惨敗。
しかし、アンダーグラウンドながらDreが絡んだ曲が数曲あるのは実際スゴイことです。
ちなみにこのアルバムはマーケットプレイスで100ドルの値を付ける隠れた名盤だったりします。
一応、「2001」にも共に参加したヒューストンの「Devin The Dude」をfeat.しています。
このようにSnoopとEminemが異常なだけなのかDreが目をかけても売れないアーティストもいるのも事実です。
また、RBXとLady Of Rageはデスロウのいわゆる「飼いならし」の被害に遭った典型です。
EVEも一時期Aftermath Entertainmentに所属していましたが、1年くらいでフィラデルフィアに帰ってしまいます。
EVEはMTVのインタビューで当時EVEは「自身がまだ若く、わがままで自己中心的だった。」振り返りつつ、「Eminemの台頭によりレーベル内での居場所を失ってしまい、レーベルを離れた」と語っています。
1999年に彼女はDMX率いる「Ruff Ryders」に所属し、成功を掴みました。
その後もDreと楽曲で共演しており、良好な関係を築いています。
G-Funkの原点であり頂点
一般的に「G-Funkの生みの親」と認識されているDreですが、実際にはDreが一人でG-Funkを産み出した訳ではありません。
G-Funkとは
BPM(テンポ)レンジが当時のヒップホップよりゆったりとしており、「タテノリ感」より「ヨコノリ感」を重視し、ドライブにピッタリでした。
最大の特徴として中高音のシンセサウンド(ピーヒャラシンセ)を多用しています。
また、P-Funk(ParliamentやFunkadelic)ネタを使うのが王道。のちにZappネタも王道になります。
G-Funkスタイルの最初期のアルバムは1990年の「Above The Law/Livin’Like Hustlers」だとされています。
このアルバムにはAbove The Lawのラッパー兼プロデューサーのCold187um a.k.a.Big HutchとLay Law a.k.a.Larry GoodmanとDreによって制作されており、この3人がG-Funkの雛形を形成したと言って差支えないと思います。
「Livin’Like Hustlers」ではP-Funkのネタは収録曲の「Another Execution」で「Funkadelic/Good Ole Music」のみしか使われていません。
Above The Lawの1991年のEP「Vocally Pimpin’」では収録曲の半分が前作のRemixですが、ガチャガチャしたアーリーG-Funkが楽しめます。
収録曲の「Dose of the Mega Flex」と「4 the Funk Of It」では「Funkadelic/One Nation Under Groove」が使用されています。
「Wicked」では「Parliament/Flashlight」が使用されています。
「Nas/It Ain’t Hard To Tell」のサックスに似てる気がすると思うのは筆者だけでしょうか?
このEPにはDreは絡んでおらず、Above The Lawの1993年の2ndアルバム「Black Mafia Life」の間を縫うようにDreの「The Chronic」が1992年にリリースされています。
「The Chronic」がG-Funk界のクラシックであり、エリートである理由はその音圧と音質だと考えています。
使用しているネタはAbove The LawもDreも似通っていますが、ネタ使いのプロセスや曲単体のクオリティという面ではやはりDreに軍配が上がります。
DreをG-Funkのスタンダードとして定めることにより、後続のG-Funkスタイルのアーティストや楽曲に影響を及ぼしているのは間違いありません。
ちなみにデスロウ脱退以降はほとんどP-Funkをサンプリングしていませんが、1992年以降「Dreに続け」と後続のプロデューサー達はこぞってP-Funkをサンプリングし、Zappをサンプリングし、G-Funkスタイルの更なる発展に寄与しました。
Dreに影響を与えた人物とは
Dreのプロデュースしてきた楽曲を分析していると面白い傾向が判明しました。
おそらくこの事実に気付いている人物は筆者くらいなのでは?と思っています。
つまり「夜ふかしさんのためのHIP HOP講座」限定なのだ!
「Dr.DreはJunnie Morrisonがお気に入り説!!」
「いや、誰だよ!!」
ってツッコミがありそうですが、このJunnie Morrison(ジュニー・モリソン)はDreがネタ使いした数々の曲で密かに絡んでいるキーボーディストで作編曲家の大御所のことです。(実際は超多彩で何でもできるマルチプレイヤー)
ジュニー・モリソンは1970年代のファンクバンド「Ohio Players」の中心人物であり、グループ脱退後の1970年代中盤からはP-Funkバンドに合流します。(P-Funkの2大バンド「Parliament」と「Funkadelic」に参加。)
ジュニー・モリソンは別名「J.S.Theracon」や「Jr.」であったり、そもそも楽曲に参加しているのにクレジットに表記が無かったりと不明な部分が多い人物ではあるもののP-Funkの総帥George Clintonからの信頼は厚かったようです。
ジュニー・モリソンの最大の特徴は「うねるシンセサウンド」であり、数々の曲で独特のファンクネス、グルーヴを生み出してきました。
Dreがしつこく使った楽曲「Ohio Players/Funky Worm」は
N.W.A.時代に「Gangsta,Gangsta」、「Dopeman」。
ソロでは「The Chronic Intro」で使用。
「Snoop Doggy Dogg/Doggy Style」では「Serial Killa」で使われています。
「Funkadelic/Knee Deep」も「Dr.Dre/Dre Day」で使われており、
Snoop の「G-Funk Intro」と「What’s My Name?」で2回使われています。
この曲に関しては「George Clinton/Atomic Dog」と「Parliament/Give Up The Funk」というP-Funk関連を3連打でネタ使いしています!
1996年の「2Pac/Can’t C Me」はP-Funkネタというより「What’s My Name?」ネタとも言うべきDreのG-Funkスタイルの集大成であり、G-Funkスタイルの最後の曲だと思います。
と、まぁジュニー・モリソン絡みの曲をたくさんしてきたDreはどう考えても彼の影響を受けていたことは間違いないでしょう。
まとめ
今回はDr.Dreについてお話してきました。
80年代のWCWCやN.W.A.の活動初期の成功~90年代のG-Funkの火付け役になり、そのG-Funkさえも過去のモノにする圧倒的なプロデュースワークを「2001」で見せ付けました。
また、「Beats By Dr.Dre」のようなベンチャーを展開したりと常に目が離せない人物でしたね。
私生活は結構ハチャメチャですが、未だ現役のプロデューサーであり、今後の活躍にも注目です。個人的にはまたアルバムを出してヒップホップを新たな方向に導いて欲しいです。
今回はちょっと長かったですが、Dr.Dreについての講義でした。