Notorious B.I.G.について
カリスマラッパーNotorious B.I.G.。
彼も2Pacと同じく東西抗争の最中に志半ばで命を落とした伝説のラッパーでした。
短い期間ではあったものの2Pacとは友好的な関係を築いていました。
しかし、ある事件をきっかけに突如2Pacは親友であるNotorious B.I.G.に牙をむき、激しい舌戦(ディスソング)を仕掛けられてしまいます。
2Pac同様、2009年に公開された自伝映画「Notorious」では時間の関係上、泣く泣くカットされたNotorious B.I.G.の人生を振り返りたいと思います。
今回はリーダーシップに長け、仲間思いで辛抱強かったNotorious B.I.G.についての講義になります。
今回の講義で得られる知識
- Notrious B.I.G.について
- NYのラップキング
- 親友2Pacとの確執
Notorious B.I.G.という男
Notorious B.I.G.(1972年5月21日~1997年3月9日没)はジャマイカ移民の両親の子供でニューヨークのブルックリン出身です。
本名は「Cristopher George Latore Wallace(クリストファー・ジョージ・ラトーレ・ウォレス)」という非常に長い名前でした。
それに対して母の「Voletta Wallace」(ヴォレッタ・ウォレス)は意外に短いのだ。
父の名前「Selwyn George Latore(レルウィン・ジョージ・ラトーレ)」からミドルネームをもらってるみたいだね。
デビュー前のビギー
愛称は「Biggie Smalls(ビギー・スモールズ)」、「B.I.G.(ビッグ)」、自伝映画では「ビッグパパ」と呼ばれていました。
ちなみに幼少期から巨漢だったため周りから「ビッグ」と呼ばれていたそうです。
父親の詳細は不明瞭ですが、両親はビギーが2歳の時に別れており、ヴォレッタは仕事を2つ掛け持ちし、貧しいながらもビギーを女手一つで育てていました。
幼少期は非常に聡明な子供で学校での成績はトップクラスでした。
ビギーは幼少期からヒップホップが好きでした。
自伝映画の中では「カーティス・ブロウ」を聴いていたよね!
裕福ではなかった幼少期の反動からか「お金を稼いでイイ生活を送る」ということに執着していきます。
12歳頃から売人としてストリートライフに染まり始めます。
この頃からラップも始めており、フリースタイルバトルの名手だった様です。
高校には進学したものの、売人としての人生を歩むことを決意し、高校を中退してしまいます。
一応、ビギーが通っていた高校の同級生、卒業生にラッパーのJay-Z、Busta Rhymesがいます。
Wu-Tang ClanのマネージャーでありエグゼクティブプロデューサーのPowerも同じ高校でした。
高校中退後は売人としてカリスマ性を発揮します。
しかし、1989年に武器の不法所持により、逮捕されてしまいます。
さらに1990年には執行猶予違反で9ヶ月の実刑を受けます。
Notrious B.I.G.というラッパー
ビギーは投獄中でラッパーになることを志し、出所後(1992年)デモテープを作成しました。
このデモテープでビギーは自身のことを「ビギー・スモールズ」と名乗りました。
「ビギー・スモールズ」とは1975年の映画「Let’s Do It Again」の登場人物でした。
ビギー・スモールズはCalvin Lockhart(カルビン・ロックハート)が演じた役だったのだ。
ビギーの転機
ビギーのデモテープはラジオパーソナリティでもあった「Juice CrewのDJ Mr.Cee」に聴かれ、ソースマガジンの新人発掘コラムで特集されました。
当時アップタウンレコーズのA&Rだった「P.Diddy」がこのデモテープを聴きビギーをスカウトし、アップタウンレコーズに所属することになります。
1992年、「Mary J.Blige」のP.DiddyがRemixした「Real Love(HIP HOP Club Mix)」でビギーが客演で登場します。
1993年にはアップタウンレコーズ所属の「Heavy D&The Boyz」の4thアルバム「Blue Funk」で客演をこなします。
「A Buncha N*ggas」でGang Starr、3rd Eye(Jesse WestⅢ)、Rob-O、Busta Rhymesと共に共演しました。
また、1993年にはP.Diddyが師弟関係を築いていたアップタウンレコーズのCEOである「アンドレ・ハレル」と仲違いし、解雇されてしまいます。
P.Diddyはすぐに自身の新レーベルである「Bad Boy Records」を設立しました。
この時、親交があったラッパー2Pac、Craig Mack、Notorious B.I.G.を引き込もうとしますが、2Pacはこの誘いを断りました。
ちなみにこの時ビギーは2Pacに「自分のメンターとしてマネジメントして欲しい」頼むんだけど「P.Diddyに任せておけば大丈夫だから」と言って断られているのだ。
2Pacめっちゃ誘い断るやん!
1993年「Super Cat/Dolly My Baby」のRemixをBad Boy Recordsが担当し、feat.でビギーが参加します。
ビギーののちの名曲である「Big Poppa」の名フレーズ”I Love It When You Call Me Big Poppa”がこの曲で初めて使われます。
1993年に映画「Who’s The Man?」のサウンドトラックにビギーの初ソロ作品「Party And Bullshit」が収録され、この曲が話題になります。
矢継ぎ早にシングル「Juicy」がリリースされます。
「Juicy」はプロデューサーのTrackmasters(Poke&Tone)の片割れPokeとP.Diddyが「Mtume/Juicy Fruit」をサンプリングし、ほぼまんま使いでビギーにラップをさせました。
自伝映画でもビギーはこの曲のビートを初めて聴いた時に「こんなぬるい曲でラップしたくない」的な発言をしますが、最終的にP.Diddyの説得に応じて曲を完成させています。
しかし、流石のエグゼクティブプロデューサーP.Diddyの読みは当たりこの曲はビギーにとって1.2を争うほど彼の代表曲になりました。
ちなみにこの頃の時流は西海岸ヒップホップ勢のG-Funkでした。ゆったりとしたテンポとP.Diddyが得意とする歌モノラップとの愛称が抜群でした。
ラップキングになったNotrious B.I.G.
1994年にCraig Mackのアルバムの先行シングルとして「Flava In Ya Ear」がリリースされます。Remixにはビギーと共にLL Cool J、Rampage、Busta Rhymesがfeat.し、シングルがヒットしました。
Craig Mackのアルバム「Project Funk Da World」の1週間後にはビギーの生前唯一のアルバムである「Ready To Die」が発売されます。
Ready To Die
Ready To Dieは最終的には累計約400万枚という途轍もない数字を叩き出しています。
当時、西海岸のG-Funkが優勢の時代であるにも関わらず初週売り上げは全米15位、HIP HOPチャート3位と好調でした。
NYヒップホップの底力を見せ付けた大名盤です。
そしてビギーは「NYのラップキング」の異名をこの1枚のアルバムで成し遂げました。
このアルバムが発売する少し前にビギーはFaith Evans(フェイス・エヴァンス)と知り合い、出会って8日後というスピード婚を果たしました。
奇しくもこのアルバムの発売日は1994年9月13日であり、2年後の同じ日盟友2Pacが亡くなった日だったのだ。
シングル「Big Poppa」はプロデューサーのChucky ThompsonとP.Diddyであり、「Isley Brothers/Between The Sheets」をサンプリングしました。
B面にはのちに2Pacとの友情に亀裂を生じさせてしまう楽曲「Who Shot Ya」が収録されていました。
ビギーの恋模様
ラップキングになったビギーはそれはもうモテモテだったそうです。
ビギーの愛人として最も有名な「Lil Kim(リル・キム)」ですが、ビギーのリル・キムに対しての愛は支配的で暴力的でした。
自伝映画でもリル・キムを脅すような強めなシーンがあったりしますが、ビギーはリル・キムのことを自分の所有物としてみていたのかも知れません。
また、リル・キムはビギーの子供を授かるものの「不倫の子供」のため、子供を墜ろしています。
ちなみにリル・キムは2014年に別の男性との間に女の子を授かっているのだ。
チャーリー・ボルチモアは日本では知名度の低いラッパーだと思いますが、彼女もビギーの愛人でした。
2人は1995年に知り合い、恋仲に発展しました。
リル・キムと同様、ラッパーとしてビギーがプロデュースしています。
のちにビギーが事故に遭った際に同乗していた人物です。
他にもビギーはスターだったためひっきりなしに女性から声がかかっていた様です。
なにそれズルい!僕もモテたいよっ!
ビギーと2Pac
2Pacとはビギーがデビューする前からの友人であり、2Pacは先輩ラッパーとしてビギーにアドバイスをしていたといわれています。
先述のメンターとして2Pacにマネジメントを頼んだようにビギーは2Pacのことを憧れの存在としており、信頼していたことがうかがえます。
2人の交友関係はそう長くは続きませんでしたが、2PacがNYやワシントンD.C.に来た時にはビギーが駆けつけよく遊んでいたそうです。
逆にビギーがLAに来た時は2Pacが現地まで赴いて友情を育んでいました。
ビギーと2Pacの共演作
「Runnin’ From Tha Police」では2Pacの舎弟グループ「Outlaws」の前身である「Dramacydal」と共に一緒に曲を制作しました。
Junior M.A.F.I.A.のミックステープでは「House Of Pain feat.2Pac」という曲が制作されました。
1994年にリリースされた「DJ Eddie F.And The Untouchables/Let’s Get It On The Album」に収録された「Let’s Get It On 」でも共演しています。
また、2Pacのグループ「Thug Life」にも誘われていましたが、実現しませんでした。
2Pacとの仲違い
1994年11月30日、NYのクアッドスタジオでビギーを含むBad Boy Recordsの面々はレコーディングをしていました。(ビギーのグループ「Junior M.A.F.I.A.」の楽曲をレコーディングしていました。)
2Pacはこの日「Little Shawn」というラッパーとの曲「Dom Perignon」のfeat.アーティストとしてNYに来訪していました。
この曲にはビギーやBusta Rhymesが別々にfeat.されたバージョンが存在しています。
2Pacはこの曲をクアッドスタジオの近くでレコーディングしていたため、レコーディングの合間にスタジオを抜け出してビギーに会いに来ようとしました。
しかし、2Pacがクアッドスタジオがあるビルのロビーに到着した時に2Pacは強盗に襲撃されてしまいます。
5発撃たれますが、すぐに病院に搬送され一命を取り留めます。
Little Shawnはアップタウンレコーズに所属しており、ジェームズ・ロズモントまたの名をジミー・ヘンチマンがマネジメントしていた人物でした。
ジミー・ヘンチマンはマネジメント業やプロモーターとしてビギーや2Pacを含むヒップホップ業界の人物と人脈を形成していました。
この事件の主犯とされている人物はジミー・ヘンチマンでした。
2012年6月15日(2Pacが生きていれば40歳の誕生日)他の罪で投獄されていた「Dexter Isaac(デクスター・アイザック)」という人物が襲撃に参加したことを証言しました。
2Pacはこの後、別件で服役することになってしまい、獄中で先述の「Who Shot Ya」を聴くことになります。
この曲を聴いた2Pacは憎悪を抱き、復讐の念に駆られてしまいます。
一刻も早く外に出たかった2Pacは「シュグ・ナイト」に保釈金を肩代わりしてもらい、悪名名高いレーベル「Death Row Records」と契約を締結させます。
さらに1995年9月にデスロウの社員でシュグの友人でもある「ビッグ・ジェイク」という人物がアトランタのクラブでBad Boy Recordsのボディーガードである「ウルフ・ジョーンズ」と口論になりました。
その後、ジェイクは何者かに襲撃され、命を落としています。
シュグは当然この事件の犯人をBad Boy Records側の仕業だと思い、更なる敵意をBad Boy Recordsに向けます。(シュグは元々Bad Boy RecordsやP.Diddyのことが気に喰わなかった。)
東西抗争に巻き込まれたビギー
1995年8月、Junior M.A.F.I.A.のアルバム「Conspiracy」がリリースされ、「Player’s Anthem」や「Get Money」などのシングルがヒットしました。
1995年10月に2Pacが出所してきましたが、基本的にビギーと2Pacは対話する機会に恵まれませんでした。
2Pacからの痛烈なディスソング
1996年6月には2Pacのアルバム「All Eyes On Me」からのシングル「How Do You Want It」のB面に収録された「Hit’Em Up」をリリースします。(実際にはこの曲のプロトタイプが1995年10月に完成していました。)
この曲はビギーやBad Boy Recordsの面々と2Pacに対して批判的なコメントをした東海岸のラッパー達(Mobb DeepやChino XL、Nasなど)をディスった曲でした。
この曲を聴いたビギーは2Pacとの対話を切望しており、関係修復を望んでいました。
通常こういったディスソングに対してラッパーであればアンサーソングを返すはずですが、2Pacとの友情を取り戻したかったビギーはBad Boy Recordsの面々や親しい友人達に対し、一切応戦しないように釘を刺しました。「応戦したら関係を切る」と周りに言っていたそうです。
当時、この2人の動向は世間の注目の的でした。
Vibe誌は度々「2Pacとビギーの確執」を特集しており、世間を煽りました。
この3ヶ月後2Pacは帰らぬ人に…
ビギーの最期
2Pacとの対話を望んでいたビギーは2Pacが亡くなったことにより、自暴自棄に陥ってしまいます。
軽微な犯罪で逮捕され、事故に遭い、左足を負傷し入院しました。
1996年10月26日にフェイス・エヴァンスとの子供「C.J.Wallace(C.J.ウォレス)」が誕生しますが、夫婦は1997年になると度重なるビギーの浮気が原因で別居し始めます。
最期の希望~Sky’s The Limit
リハビリ中、ビギーは2ndアルバムの制作に打ち込んでいました。
1997年3月7日、ソウル・トレイン・ミュージック・アワードでBad Boy RecordsのR&Bグループ「112」の応援のためにLAを訪れていました。
翌日の深夜、アワードの打ち上げパーティーの後、ビギーは宿泊先のホテルに車で移動中に襲撃され命を落としていしまいます。
葬儀には生前親交があった著名人が多数参列し、ファン達は沿道でキャンドルに火を灯もし、ビギーを追悼しました。
2ndアルバム「Life After Death」はビギーが亡くなった16日後にリリースされました。
リリースはリークされることを懸念して予定よりだいぶ前倒ししてリリースされました。
残念ながら生きている間にリリースできなかったアルバム「Life After Death」は2枚組の大ボリュームでリリースされました。
アルバムリリース前にリリースされたシングル「Hypnotize」を始め、アルバムリリースの4ヶ月後にリリースされた「Mo Money Mo Problems」やさらに4ヶ月後に両A面シングル「Sky’s The Limit/Going Back To Cali」がシングル化されました。
R.Kelly、Jay-Z、The LOX、Ma$e、P.Diddy、Bone Thugs-N-Harmony、112、Lil Kim、Too Short、D.M.C.、Carl Thomasなどの大物やレーベルメイトを客演に迎えました。
また、Mobb DeepのHavoc、DJ Premier、Easy Mo Bee、Wu-Tang ClanのRZA、DJ Clark KentなどのNYの精鋭クリエーターがプロデューサーとして参加しました。
いわゆるビギーはGangsta Rapもしくはマフィオソラップをしてきたラッパーでしたが、この2ndアルバムでは「Sky’s The Limit」の様な希望を歌った曲があったり、「Going Back To Cali」の様な東西抗争を終結させるための曲があったりと一皮剥けたビギーが聴けるアルバムになりました。
「Sky’s The Limit」は幼少の頃の話をベースに”人間は諦めなければ不可能は無い”と言っています。
「Bobby Caldwell/My Flame」をサンプリングしています。
この曲はのちに「Ozrosaurus/風吹く土曜feat.Say」にてサンプリングされています。
「Going Back To Cali」では”どっちの海岸も最高だぜ!地元を愛そうぜ!”と歌っており、東西のわだかまりを埋めようと尽力しました。
「Zapp/More Bounce To Ounce」がサンプリングされています。
この曲は「Ma$e/Going Back To Harlem」や「Top Dog」というSnoopのそっくりさんにサンプリングされたり、サイプレスヒルのB-Realがまんま使ったりとのちに数々のアーティスト達にサンプリングされました。
また、2017年のフェイス・エヴァンスのアルバム「The King&I」の「When We Party feat.Snoop Dogg」でサンプリングされています。
MVには息子のC.J.Wallaceも母と共演しています。
ビギーの関連作品
生前リリースされたアルバムは1枚しか無かったビギーですが、P.Diddyが本格的にラッパーとしてデビューした際のアルバム「No Way Out」では5曲にfeat.されていました。
1999年には「Born Again」というRemixアルバムがリリースされました。
2005年にも「Duets:The Final Chapter」というRemixアルバムがリリースされました。
2017年にはFaith Evansとビギーのアルバム「The King&I」がリリースされました。
いずれのアルバムも2枚のアルバムとビギーがfeat.した際の音源をもとに構成されています。
元NBA選手のシャキール・オニールとビギーは交友関係があり、1996年リリースのShaqのアルバム「You Can’t Stop The Reign」のシングル「You Can’t Stop The Reign feat.The Notorious B.I.G.」に参加しました。
マイケル・ジャクソンの生前最後のアルバムである2001年の「Invicible」に収録された「Unbreakable」はShaqとの「You Can’t Stop The Reign」のリリックをそのまま流用して疑似feat.しています。
また、収録曲「Shaq/It Was All A Dream」はビギーの「Juicy」のリリックを引用しており、ビギー愛が溢れる曲だったりします。
ちなみにこのアルバムは良曲が多く、ほぼ捨て曲が無いです。
マイケル・ジャクソンとは1995年のマイケル・ジャクソンのアルバム「History Past,Present,And Future BOOK Ⅰ」に収録された「This Time Around」にfeat.されています。
なぜかこの曲のバージョンはRemixを含め30曲位存在します。
マイナー所で言うと「Trapp」というアーティストが1997年に「Stop The Gunfight feat.2Pac&The Notorious B.I.G.」という曲をリリースしています。
まとめ
ビギーはNYで世界で最も愛されたラッパーの1人です。
圧倒的なラップスキルもさることながら、その人柄も非常に愛された人物でした。
ビギーは基本的に歌詞を書かずにレコーディングに臨んでいました。
フリースタイルなのにバチバチにライムし、ちゃんと成立させるという超が付く程の天才でした。
P.Diddyの手腕ではあるもののキャッチーなサンプリングにも負けない完ぺきなストーリーテリングはお見事と言うしかなく、フロウと声質も相まって彼の見た目通りのヘヴィチューンに様変わりします。まさにカリスマ!
なんだろ、この圧倒的なラスボス感!
また、2Pacに再三、挑発されても彼との友情を信じ、絶対にやり返さなかった忍耐と度量の広さは素晴らしいです。
メディアの暴走にも屈さず、あくまで話し合いで解決させようとしていたのは彼を親友だと思っていたからだと思います。
また、東西抗争を終わらせようと尽力していた人物でもあり、平和主義だったことも伺えます。
本当に惜しいラッパーを失ってしまいました。
今回はNotrious B.I.G.についての講義でした。