ニュースクールHIP HOP
オールドスクールの対義語であるニュースクールは逆に言えばオールドスクール以外のすべてのヒップホップがニュースクールになります。
何となくではありますが、専門的に1984年~1990年辺りをこのニュースクールの隆盛と捉えることが多い様に思います。
特に日本ではダンスシーンにおいてこの時代のことをミドルスクールという場合もあります。
ダンサー界隈では1990年代をニュースクールとして定義することが多く、ファッションを含めたダンスのスタイルや特徴を指しています。
ラップも基本的には同じ意味合いになりますが、年代(年表)が少しずれているような曖昧な定義が「オールドスクールとニュースクール論争」になります。
また、この時代は「Eric B&Rakim」や「Big Daddy Kane」のようなラップスキルを芸術の域まで到達させた時代でもありました。
今回はヒップホップが新たなステージに到達したニュースクールの講義になります。
今回の講義で得られる知識は…
- ニュースクールとは
- HIP HOPを塗り替えたDef Jam
- ラップの多様化
ニュースクールへの移行
オールドスクールからニュースクールへの移行は「Def Jam Recordings」と「RUN-DMC」の台頭によってもたらされたと考えるとしっくりくると思います。
私的見解ではヒップホップの黎明期(1970年代)からDef Jam(1984年頃)が設立されるまでがオールドスクールの時代。
Def Jamが飛ぶ鳥を落とす勢いで勢力を拡大していった時代がニュースクールという見解です。
Def Jam Recordingsとは
1984年、ラッセル・シモンズ(1957年10月4日生まれ)とリック・ルービン(1963年3月10日生まれ)がニューヨーク大学に在学中、「Def Jam Recordings」を設立。(ユニバーサルミュージックグループと配給契約を締結。)
正式な設立前の1982年にリック・ルービンがギターを担当したガレージパンクバンド(アートコアバンド)の「Hose」がセルフタイトルのEPをリリースし、1983年にも「Mobo」というタイトルのEPをリリースしていました。
・ラップロックの申し子
「ラン」ことジョセフ・シモンズ(1964年11月14日生まれ)ラッセル・シモンズの弟。
「D.M.C.」ことダリル・マクダニエル(1964年5月31日生まれ)
「DJジャム・マスター・ジェイ」ことジェイソン・ミゼル(1965年1月21日~2002年10月30日没)
2MC1DJで構成される「RUN-DMC」を1983年に結成。
1984年に1stアルバム「Run-D.M.C.」をラッセル・シモンズとラリー・スミスがプロデュースをして「プロフィールレコーズ」からリリースしました。
Run-DMCはDef Jam所属と思われがちだけど実際には兄のラッセル・シモンズの「ラッシュマネジメント」でマネジメント契約をしていたのだよ。
この1stアルバムはビートとスクラッチが特にフューチャーされており、究極的にシンプルな構成でパーティー主体のオールドスクールの時代との決別を印象付けました。
RUN-DMC以前のラッパー達のファッションはステージ衣装という印象が強かったのに対してRUN-DMCはストリートファッションを着こなしていました。
RUN-DMCはスポーツブランドであるアディダスとのスポンサー契約を交わしました。
ラップロックの申し子とも言うべき存在のRUN-DMCはヒップホップグループで初めてローリングストーン誌の表紙を飾りました。
また、グラミー賞で初ノミネートされ、MTVでMVが初めて放映された初めてづくしのグループでした。
まさにヒップホップ界のレジェンドだね!
元祖ヒップホップのモテ男
LL Cool J(1968年1月14日生まれ)「Ladies Love Cool James」の略。
Def Jamと契約した第一弾アーティストとしてシングル「I Need A Beat」を1984年にリリースし、新人+新興レーベルながら10万枚を売り上げました。
1985年には1stアルバム「Radio」をリリース。
1987年の2ndアルバム「Bigger And Deffer」に収録の「I Need Love」は今でいうメロウやチルチューンというカテゴリーの楽曲で女性ファンを一気に増やしました。
ラブバラードをヒップホップに持ち込み、パーティー思考とは一線を画す存在となりました。
しかし、モテ過ぎてしまったせいで同業のラッパーやリスナーから反感を買ってしまいます。
1989年リリースの3rdアルバム「Walking With a Panther」ではセルアウト扱いされてしまい、ハーレムの野外ステージではライブ中に観客から大ブーイングを浴びせられてしまいます。
アルバム自体はLA PosseとLL自身がプロデュースに参加し、意欲作でしたが、この時LLの人気は低迷していました。
続く1990年リリースの4th「Mama Said Knock You Out」は前作の不名誉を払拭するかのような傑作を生み出します。
シングルチャートで1位を獲得した「The Boomin’System」は「James Brown」の「Funky Drummer」、「Pay Back」、「My Thang」をサンプリングし、時流のGangsta Rapっぽいゴリゴリの男らしい正統派ヒップホップを披露しました。
また、この曲とは対照的なやはり時流のNew Jack Swingっぽい都会的なメロウチューン「Around The Way Girl」も人気を博しました。
「Mary Jane Girls/All Night Long」、「Keni Burke/Risin’To The Top」、「Honey Dorippers/Impeach The President」をサンプリングし、早回しボーカルが切なさ満載な1曲。
のちにAmerieをfeat.した「Paradise」やJennifer Lopezの曲「All I Have」に参加し、バラード系路線では不動の地位を獲得したと思うのだ。
LL Cool Jは女性シンガーが参加したメロウな楽曲を多くリリースしてきたイメージってあるよね。
更なるラップロックの申し子
RUN-DMCの成功でラップロックという言葉が開拓され、ロックファンをも取り込んだDef Jamは白人の3人組グループBeastie Boysを発掘します。
Mike D(1965年11月20日生まれ)
MCA(1964年8月5日~2012年5月4日没)
Ad-Rock(1966年8月31日生まれ)
元はハードコア・パンクバンドの「The Young Aborigines(ヤング・アボリジニーズ)」がリック・ルービンの目に留まりDef Jamに加入することになります。
そしてBeastie Boysに改名して1986年に1stアルバム「Licensed to Ill」をリリースしました。
アルバムはリック・ルービンがガッツリプロデュースした作品であり、全米チャートでHIP HOP史上始めて1位を獲得した記念すべきアルバムです。
元々このグループは実験的な音楽を好む傾向があったため、2nd以降も意欲的な作品が多いのですが、時代の1、2歩先を進んでいたため当時の人々には理解されない傾向がありました。
コンシャスラップのパイオニア
Public Enemyは政治的思想をコンセプトに据えたグループで「チャックD」を中心に1985年に結成されました。Def Jam所属。
Chuck D(1960年8月1日生まれ) MC
Flavor Flav(1959年3月16日生まれ) ハイプマン
Terminator X(1966年8月25日生まれ) DJ 1988年に脱退
Professor Griff(1960年8月1日生まれ) MC兼情報相 1989年脱退 1998年再加入 現在は再脱退
DJ Lord(1975年3月11日生まれ) DJ
Sammy Sam(不明) MC兼プロデューサー 韓国人?
さらに別動隊としてプロデューサー集団である「The Bomb Squad(ボム・スクアッド)」を結成しました。
ボム・スクアッドは主にチャックDとショックリー兄弟によって運営されていました。
1987年に1stアルバム「Yo!Bum Rush The Show」をDef Jamからリリース。
1stアルバムは「ウルトラマグネティックMC’s」を意識して制作され、ボム・スクワッドが全面的にプロデュース。
1988年に2ndアルバム「It Take a Nation of Millions to Hold Us Back」をリリース。
代表曲の1つ「Bring the Noise」は91年にメタルバンドの「Anthrax」にカバーされ客演も果たしました。
1990年に3rdアルバム「Fear Of A Black Planet」に収録された「Fight The Power」はPublic Enemyの代表曲であり、のちのヒップホップの在り方を変えた曲となりました。
この様にDef Jamにはヒップホップの歴史を変えたアーティストが多数在籍していたのだ。
ニュースクールの革命児
「Eric B&Rakim」は1987年に傑作アルバム「Paid In Full」をリリース。
ラキムによってスキルという概念が生まれ、ラップに「ライミング」と「フロウ」を付加しました。
以降、スキルに着目した楽曲やアーティスト達が増え始め、2000年代までのほぼすべてのラッパー達が「ラキム」を手本にしたと言っても過言ではありません。
ちなみに「Paid In Full」は「4th&B’way Records」という聞き馴染みの無いレーベルからリリースされました。
のちにMCAの傘下に入り、現在はユニバーサルミュージックの傘下。
「Eric B&Rakim」のメンバーは
Eric B(1963年11月8日生まれ) DJ兼プロデューサー
Rakim(1968年1月28日生まれ) MC
ライムとフロー
アルバム「Paid In Full」(1987年)以前のライミングは文末の単語で韻を踏むことが多かったようです。
ラキムは文中の単語で押韻する
「インターナル・ライミング・スキル」
さらに2箇所以上の音節で押韻する
「マルチ・シラビック・ライミング・スキル」
それらを駆使したラップを披露しました。
これらのスキルに加え、オンビート(ビートに対してドンピシャに)とオフビート(ビートに対してずれている)を使い合わせてフロウという概念を持ち込んだと言われています。
ラキムより前のラッパーのラップがどれを聴いても同じ風に聴こえてしまうのはこれが原因だったんだね。
「Paid In Full」を境にHIP HOPは黄金期を迎えるという考え方もあるようです。
早口ラップ
「Big Daddy Kane(ビッグ・ダディ・ケイン)」(1968年9月10日生まれ)もラキムと並び立つラッパーのパイオニア的な存在です。
LLとは違った意味でプレイボーイキャラを押し出し、セルフブランディングに成功したラッパーでした。
いわゆるファスト・フロウ(早口ラップ)を開拓した人物でラブソングが得意であり、1980年代から「Jay-Z」の師匠でもありました。
Big Daddy KaneはJay-Zにライブサポーターを任せていました。
ちなみにJay-Zのもう一人の師匠は「Jaz-O」っていう人なのだ。
ちなみにエミネムはRakimやBig Daddy Kaneの影響を受けているそうです。
サンプリングを進化させた男
Paul C(ポール・シー)は日本ではあまり馴染みが無い印象だと思いますが、ニュースクールHIP HOPの後期に一時代を築いたプロデューサーです。
Paul Cは1985年頃からNYのクイーンズのスタジオ「1212」でエンジニアとして働き始めます。
「Ultramagnetic MC’s」のメンバーである「Ced-Dee」と共に当時としては独創的なサンプリング技法である「チョップ」や「ボイスサンプリング」という新しいサンプリング技術を生み出しました。
え?この人達がチョップを編み出したんだ。スゴっ!
そうなのだ。
この技術は未だに様々なジャンルのアーティストやプロデューサーが使っているサンプリングの王道なのだ。
Paul Cの最高傑作との呼び声高い1988年のアルバム「Ultramagnetic MC’s/Critical Beatdown」は現在もブーンバップ系ビートメイカーのバイブル的アルバムです。
1988年には「Super Lover Cee&Casanova Rud」のアルバム「Girls I Got’ Em Locked」をリリース。
1989年には初期のEPMDと共にダンサーとして活動していた「Stezo」とのアルバム「Crazy Noise」をリリース。
ポップでダンサンブルな曲を制作してきました。
惜しくも1989年に事故で亡くなっていますが、「1212」で働いた4年余りで数々の名盤を世に残した名プロデューサーでした。
ラッパー達の対立
オールドスクール時代にもラッパーによる小競り合いは多少あったと思いますが、ニュースクール以降は公式に楽曲でケンカをするという行為が度々見られるようになりました。
もちろんこれより前から「ラップバトル」や「フリースタイル」は存在していました。
ロクサーヌ・ウォーズとは
1984年に勃発したおそらく初めての楽曲でのビーフである「ロクサーヌ・ウォーズ」。
1984年に「UTFO」というグループは
「ロクサーヌという架空の女性をナンパして誰がロクサーヌと付き合えるか」
という内容の「Roxanne Roxanne」をリリースします。
のちにマーリー・マール率いるJuice Crewに所属することになる
「Roxanne Shante(ロクサーヌ・シャンテ)」(1970年3月8日生まれ)は
若干14歳で「UTFO/Roxanne Roxanne」に対してのアンサーソングである「Roxanne Revenge」を1984年にリリースし、注目を浴びることになります。
この対決はUTFOがJuice Crewとラジオ局が企画したイベントをすっぽかしたというのがことの発端でした。
この話を聞いてシャンテはマーリー・マールにレコーディングを頼み込んでこの「Roxanne Revenge」という曲を作りました。
マーリー・マールが個人的にUTFOへの復讐のためにシャンテを使って曲をリリースさせたという説もあるみたいなのだ。
「Roxanne Revenge」はシャンテのフリースタイルで進行していき一発録りでレコーディングされました。
これに対し、UTFO陣営は曲の権利を訴え、再録音を余儀なくされました。
また、他のラッパー達(Sparky DやKrush Groove)からも「Roxanne Revenge」に対してのアンサーも作られ、架空の女性である「ロクサーヌ」をめぐって1年間で20曲以上も楽曲が作られました。
最終的に無名アーティストも含め、音源化されたロクサーヌ関連作品は100曲以上とも言われており、これを俗にいう「ロクサーヌ・ウォーズ」と言います。
ブリッジ・ウォーズとは
ことの発端は1986年、「Juice Crew」の「MC Shan(MCシャン)」(1965年9月6日生まれ)が地元愛(NYのクイーンズ)をラップした「The Bridge」という曲を発表します。
しかし、ブロンクスの「Boogie Down Productions」はなぜかこの曲に反応し、
「自分達(その他の地域も含む)に対してのディスソングだ!」と勘違いしてしまいます。
「KRS-One(ケアレス・ワン)」(1965年8月20日生まれ)は
「South Bronx」というアンサーソングをリリースします。
MC Shanもこの曲を聴いて
「HIP HOPがクイーンズ発祥の文化だなんて言ってないのに…」
と思いつつも売られたケンカを買います。
そして「Kill That Noise」という曲をリリース。
さらにこの曲に対してKRS-Oneは「Bridge Is Over」をリリース。
以降、MC Shanからのアンサーは無くKRS-Oneの勝利として扱われています。
実際は「KRS-Oneが勘違いした“だけ”である。」
のちにこの「MC Shan VS.KRS-One」のラップバトルは「ブリッジ・ウォーズ」と呼ばれ、後世に語り継がれる名バトルとされています。
勘違いだけどね!(3回目)
多様化するヒップホップ
ニュースクールの後期に入るといわゆる「正統派ヒップホップ(硬派)」とは別に「ポップなヒップホップ(軟派)」や「オタクなヒップホップ(軟派)」が増え始めます。
硬派と軟派があからさまな対立はなかったもののアーティストもファンも二極化することになってしまいます。
しかし、この時代にアートとして、文化としてヒップホップの多様性が高まり、俗に言う「ヒップホップの黄金期」が形成されます。
ダンス系HIP HOP
主に「ダンスするための曲」や「POPな曲」と言われるスタイルに属する曲やそういった曲を得意とするアーティストを指していますが、
ヒップホップ自体は基本的に「ダンスミュージック」なのである意味オールドスクールなヒップホップに忠実なスタイルともいえるカテゴリーだと思います。
しかし、硬派な「正統派ヒップホップ」を自称するアーティストやリスナーからの受けはあまりよくなかったのもまた然り。
この流れは日本のヒップホップシーンでも2000年代前後に起きています。
「Dragon Ash」や「RIP SLYME」、「Kick The Can Crew」がJ-Popシーンで活躍する一方でアンダーグラウンドなアーティストや往年のリスナーからの批判が多々ありました。
MCハマー
MCハマー(1962年3月30日生まれ)は1986年頃から活動を開始しました。
転換期である1990年に3rdアルバムである「Please Hammer Don’t Hurt’Em」をリリースします。
収録曲の「U Can’t Touch This」がスマッシュヒットし、このアルバムの世界累計売り上げ枚数は2200万枚というとんでもない数字を叩き出しました。
日本でも「ハマーブーム」が起こって
「U Can’t Touch This」という曲でヒップホップという枠組を大きく越えてポップスター的な人気を獲得したんだよね。
ハマーパンツもこの人が穿いてたズボンだよね。
この曲がヒップホップに及ぼした影響は計り知れませんが、硬派なアンダーグランドからの反発は凄かったようです。
ちなみにMCハマーはその後、贅沢三昧な生活を送り、自己破産してしまいます。
そしてなぜかGangsta Rapに傾倒し、一時期は親友である2PacやSuge Knightを頼ってDeath Row入りするという謎行動を取ります。
Death Rowでの未発表のはずのアルバムがなぜか流出し、オークション等で高値で取引されていました。
ウィル・スミスのラッパー時代
ハリウッド俳優として名を馳せる前の「ウィル・スミス」(1968年9月25日生まれ)は当時ラッパー「Fresh Prince」として活動をしていました。
DJ Jazzy Jeff(1965年1月22日生まれ)は10歳頃からDJを始めた大御所DJであり、スクラッチ技術はとてつも無いです。
2人は「DJ Jazzy Jeff&The Fresh Prince」として1986年にデビューします。
1988年にはシングル「Parents Just Don’t Understand」でグラミー賞をラッパー界隈で初めて獲得する等ラッパーとしても輝かしい経歴を残しています。
ちなみにこの2人はラッセル・シモンズの「ラッシュマネジメント」でマネジメントしてもらってたのだ。
MCハマー同様、アイドル的人気を誇った2人もアンダーグラウンドからは敬遠されてしまう傾向があります。
ちなみにウィル・スミスの奥さんは2Pacの親友であるジェイダ・ピンケットです。
2023年に奥さんに暴露本出されてたよね。
2人は「仮面夫婦」らしいよ!
オタク系HIP HOP
英語では「Nard(ナード)」と言いますが、究極的なところを言ってしまうと売れてる人物は(どんな文化やジャンルであっても)「みんなオタク」だと思っています。
ビートメイカーなんかは特に「変態的にレコードを掘っている人ほどヤバいビートを作る」と個人的には思っています。
Native Tongues(ネイティヴ・タンズ)
ネイティヴ・タンズは1988年頃発足したクルーで音楽オタクが集まったクルーでした。
「自分たちが本当に作りたい音楽を作る。それが人に理解されなくてもいい!」という思想が強いクルーでした。
主要なヒップホップがFunkをサンプリングしていた時代にジャジーな曲やアフリカチックな曲をサンプリングしていました。
1988年に一番先輩の「Jungle Brothers」が1stアルバム「Straight Out The Jungle」をリリースし、HIP HOPとJazzとHouseを融合した初めてのグループになりました。
マニアックなネタ使いが多く、玄人志向なアルバムですが、この音世界はやはり独特な雰囲気を醸し出しています。
1989年にはオタク全開の「De La Soul」が1stアルバム「3Feet High And Rising」をリリース。
ジャケットもカワイイ本作。このほのぼの明るい雰囲気は当時LAで流行していたゴリゴリのGangsta Rapとは対極でしたが、世界中のオタクとオタク予備軍を熱狂させました。
1990年に「Jungle Brothersの高校の後輩」である「A Tribe Called Quest」が
1stアルバム「People’s Instinctive Travels And Paths Of Rhythm」をリリースし、高い評価を受けました。
Q-Tipは超ド級の音楽オタクでした。
その溢れんばかりのマニアックな音楽愛をアルバムに投影させ完成させた作品。
それぞれのグループがそれぞれの「オタク道」を貫いた素晴らしいクルーです。
Flavor Unit(フレイヴァ・ユニット)
Flavor Unitはニュージャージー州を拠点に「DJ Mark The 45King」が中心となって1980年代中盤に結成したクルーでした。
ネイティヴ・タンズに比べるとオタク感は少し薄めですが、バキバキのヒップホップ感はあまり無く、ごく自然体でラフな感じのアーティストが多い印象があります。
45Kingはオールドスクール時代から活躍するDJであの「DJ Premier」が師として仰いでいる人物です。
恐らくこの2人は「Gangstarr」の「Guru」と一時期一緒に活動をしていた時代(1988年頃)に知り合ったと思います。
1988年にヒップホップクラシック「The 900 Number」がヒット。
1990年代以降リサンプリングされ再注目されます。
また、1998年には「Jay-Z/Hard Knock Life(Ghetto Anthem)」や2000年には「Eminem/Stan」をプロデュースしました。
しかし、1988年頃から薬物中毒になってしまい、「Queen Latifah(クイーン・ラティファ)」に「Flavor Unit Entertainment」というアーティスト管理会社(プロダクション)の運営を任せ、自身は休養に入りました。
ラティファは女社長として実質的なリーダーとなってクルーを率いました。
ラティファはフレイヴァ・ユニットとネイティヴ・タンズのメンバーでもありました。
1989年の1stアルバム「All Hail The Queen」をリリースし、シングルにもなった「Ladies First」がヒット。
ネイティヴ・タンズからDe La SoulとMonie Loveをfeat.しました。
ラティファはニュージャージー州のイーストオレンジで「Naughty By Nature」を発掘し、所属レーベルである「Tommy Boy」との契約も手伝いました。
Naughty By Natureは1991年に「O.P.P.」がヒット。
1993年には「HIP HOP Hooray」がスマッシュヒットを記録しました。
キャッチーなフレーズとネタ使いは当時大流行していました。
歌モノHIP HOP
「New Jack Swing(ニュー・ジャック・スウィング)以下:NJS」というヒップホップのサブジャンルも1980年代後期に生まれました。
NJSは1987年頃から主にプロデューサーの「Teddy Riley(テディ・ライリー)」がSoulやFunkといった歌モノとHIP HOPを近づけたジャンルです。
日本では「ブラック・コンテンポラリー」(いわゆるブラコン)の次の世代で「アーバンポップス」や「AOR」として紹介されてたのだよ。
この頃のヒップホップはキャッチーな曲はあれど、本格的にシンガーと絡んだ曲は極わずかでした。
そもそもいわゆるメロウな曲がほぼありませんでした。
「都会的でオシャレ」、「グルーヴィー」な楽曲が多く、「Jazzのスウィングビート」を用いているのが特徴です。
また、深めにかけたリバーブがこの時代を象徴しています。
リバーブっていうのはカラオケのエコーみたいな反響音のことだよ。
現在、R&Bとして認識している曲やシンガーはこのNJS由来のものが多く含まれてR&Bという形を形成しています。
そもそもNJSが「HIP HOP的観点から形成されている」というのはどういうことかと言うと…
HIP HOP的なアプローチで楽曲が制作されているという従来の制作方法との違いがあります。
簡単にいうとバンド形態を取らず、制作チームで楽曲を制作するというのがヒップホップ的です。
また生音主体というよりはドラムマシンやサンプリングを主体に制作を進めていきます。
現代の音楽のほとんどはループと呼ばれる4小節~8小節を繰り返し、
音の抜き差しで楽曲を制作するスタイルが主流ですが、その礎はHIP HOPにあります。
「R&Bのアーティストとラッパーが一緒に曲を作る」というのはこのNJS時代から始まりました。
ちなみに…
「Jack」は日本でいうところの「太郎」。
「Jill」は日本でいうところの「花子」。
つまり、女性アーティストがNJSを歌うと「ニュー・ジル・スウィング」になるのだ。
これは半分正解で半分不正解です。
しかし、のちにデビューする「Mary J.Blige(メアリー・J・ブライジ)」はこの「ニュー・ジル・スウィング」というキャッチコピーで売り出される予定でした。
なんかそうやって聞いちゃうとNJSってなんかダサいなぁ。
まとめ
ヒップホップは1980年代半ばから様々な変化を経てニュースクール時代に移行しました。
「ヒップホップという文化」と「ヒップホップというジャンル」が成長してきた証であり、リスナー層もそれぞれ「ばらけてきた感」が伺える時代です。
その要因はDef Jam Recordingsの台頭を始め、
「ラキム」や「ビッグ・ダディ・ケイン」といったラップスキルの向上を進めたラッパーや
「ポップ志向」や「オタク志向」、「歌モノ」といった新たな世代やスタイルが流入したことでした。
今回はニュースクールの歴史の講義でした。