HIP HOPの夜明け
1960年代の「公民権運動」を経てもなお、過酷な人種差別や度重なる都市開発による居場所の喪失などにより、マイノリティ達は「不満」や「生活の不安」を抱えていました。
HIP HOPの生誕の地「サウス・ブロンクス」はHIP HOPを語る上で重要な街です。
また、HIP HOPの開祖とも言うべき3人のDJも重要な存在です。
今回はいかにして「HIP HOPはHIP HOPへと至ったのか」という講義になります。
今回の講義で得られる知識
- HIP HOP誕生の地「サウス・ブロンクス」のこと。
- ブロックパーティーが流行した経緯。
- HIP HOPの創成者である“HIP HOPの三賢人”*の存在と成し遂げた偉業について。
*HIP HOPの三賢人とは「クール・ハーク」、「アフリカ・バンバータ」、「グランドマスター・フラッシュ」のこと。
サウス・ブロンクス
サウス・ブロンクスとは
ニューヨークのブロンクス区には「動物園」や「植物園」、「ブロンクス・パーク」という自然豊かな公園があったり、メジャーリーグのニューヨークヤンキースの本拠地である「ヤンキースタジアム」があったりと観光名所もたくさんあります。
ブロンクス区の南西部に位置する「サウス・ブロンクス」。
1940年代までは中産階級の白人が主に暮らし、家族向けのアパートが立ち並ぶ比較的治安の良い地域でした。
ゲットー化の加速
1950年代に入りサウス・ブロンクスの都市開発を推し進めるも失敗してしまい、中産階級は他の地域に引っ越してしまいました。
中産階級が抜け、マイノリティは他の地域に移住できなかったため、失業率が上がりギャングが街をねり歩く様になり犯罪の温床となってしまいました。
高速道路の建設が始まるとサウス・ブロンクスに住んでいた人たちは強制的に退去させられてしまい、低所得者向けのプロジェクト(団地)に移りました。
この高速道路や都市計画を推し進めた人物こそ“マスター・ビルダー”こと「ロバート・モーゼス」*という人物ででした。
*サウス・ブロンクスをゲットー化させた張本人でもあり、政治家/都市建設家です。
橋の建設や公園の設置、道路の整備など一定の成功を収めていた人物でしたが、クロスブロンクスエキスプレス(高速道路)計画は失敗してしまいました。
サウス・ブロンクスは1970年代になると廃墟が増え、その廃墟に火を放ち、火災保険を受け取ろうとする大家が増えました。
1970年から1975年だけで70000件近くの火事が起ってしまいます。
1977年に「ニューヨーク大停電」(1965年にも発生)が発生し、サウス・ブロンクスを含むゲットーを中心に略奪が横行してしまい、ニューヨーク中が混乱、不安に覆われてしまいました。
ブロック・パーティー
ブロック・パーティーの役割
広くは街角で行われる野外のパーティーで祝賀会、お祭りの様なもので古くから存在していました。
「ドゥワップ」、「デルタ・ブルース」、「カントリー・ブルース」は伝統的に街角で歌っていたのだ。
1970年代から行われていたブロック・パーティーはゲットーでの暮らしの中でもパーティーを開催することによって住人達が楽しむために開催されていました。
また、ご近所さん達の交流や情報交換の場として始まりました。
このブロック・パーティーでサウンドシステムを導入し、DJ達が曲をかけ、お客さんを躍らせるという所からHIP HOPの文化は発展していきます。
ディスコよりもブロック・パーティー
当時のアメリカは空前のディスコブームでしたが、ブロック・パーティーでDJ達がかけていた曲はファンクが中心でした。
というのもディスコは流行っていたものの、ゲットーに住む若者達にはディスコの曲の歌詞が刺さらず、浮世離れしていました。
また、テンプレート的な(当時の)Hi-fiでキラキラしたゴージャスなシンセサウンドやどこか白っぽいグルーヴ(黒さが薄い)は受けが悪かったようです。
故にDJ達は黒いグルーヴの曲を好んでかけ、ファンクの王道から少し外れた様なレアなレコードを探してきては他のDJと選曲で競っていました。いわゆるレア・グルーヴ。
ゲットーの若者達がクラブやディスコに行くには敷居が高く、金銭的な問題や犯罪や事件に巻き込まれたりするリスクもありました。
彼らがそういったクラブやディスコに行くことは基本的に無かったそうです。
HIP HOPの三賢人とは
DJクール・ハークとブレイクビーツ
クール・ハークは1973年にHIP HOPの基本中の基本ともいうべきブレイクビーツを発明し、初お披露目しました。
ブレイクビーツとは簡単に言うと“2台のターンテーブルを使用し、曲と曲とを違和感無く繋ぎ、楽曲を引き延ばすという技術”のことです。
え?ただ引き延ばしただけ?
引き延ばされた部分こそ“観衆が最も踊れる部分”だということにクール・ハークは気付いていたのだよ。
人は「グルーヴを強く感じる部分がループしていると気分が高揚する」という研究結果もあるみたいなのだ。
踊らすために楽曲のカッコイイ部分だけを抽出するというのはのちのサンプリング技術に大きく貢献しました。
HIP HOPを含むクラブミュージックは4小節もしくは8小節のループで構成されていることが多いです。
このブレイクビーツにクール・ハークの仲間のMC達が観衆を盛り上げるためにシャウトやコール&レスポンスを乗せました。これがのちのラップへと進化してきます。
伝説のイベント
クール・ハークは1973年8月11日に伝説となったイベント「Buck To School Jam」を開催しました。
このイベントはクール・ハークの妹「シンディー・キャンベル」が持ち掛けた話でした。
ちなみにクール・ハークはDJになる前にグラフィティクルーに所属していました。
クール・ハークは“ゲットーの救世主”であり、ブロック・パーティーで観衆を盛り上げ始めた頃から徐々にギャングが減少していったという逸話があります。
そして、クール・ハークのDJプレイを観てDJを始めた人が続出しました。
その中でもとりわけ才能を開花させた人物が
Afrika Bambaataa(アフリカ・バンバータ)
Grandmaster Flash(グランドマスター・フラッシュ)
の二人でした。
アフリカ・バンバータとヒップホップ
バンバータの母親はレコードコレクターでもあり、公民権運動の活動家でした。
幼少の頃から母のコレクションをよく聴いていたそうです。
アフリカ・バンバータはブラック・スペードというギャングに所属し、頭角を現しリーダーにまで昇りつめたカリスマでした。
1973年にはZulu Nation(ズールー・ネイション)という非暴力組織を立ち上げた人物です。
HIP HOPを定義
さらに“HIP HOPの4大要素”を制定し、この文化のことを“HIP HOP”と名付け、宣言した日が1974年11月12日とされています。HIP HOPの名付け親や背景は諸説あります。
バンバータは1980年代初頭、サンプリング主流のHIP HOPの楽曲制作に「打ち込み」という概念を流入させた人物であり、エレクトロヒップホップの重鎮とされています。
エレクトロヒップホップは後に西海岸やマイアミに飛び火し、独自の進化を遂げ各々の地元で人気を博しました。
1983年にバンバータは「D.J.Afrika Bambaataa/Death MIX-Live」というレコードをリリースしています。
録音された時期は定かではありませんが、このMIXに使用された「YMO/Fire Cracker」が収録されたアルバムの発売日が1978年11月25日にリリースされたことを考えるとこの日よりあとに録音された音源だと思います。
この時代はまだ「ミックステープ」というものは存在していなかったからレコードでミックスをリリースした最初の人物とされているのだ。
日本のアーティストがこんな歴史的レコードに収録されているなんてスゴーイ!
ちなみにこのFire Crackerの原曲は「Martin Denny(マーティン・デニー)/Quiet Village」という1959年の曲のカバー。
2000年には「Jennifer Lopez/I’m Real」にYMOバージョンがサンプリングされました。
同じく2000年に「Mariah Carey/Loverboy」という曲でもYMOバージョンがサンプリングされる予定でしたが、マライアの別れた夫が嫌がらせで「Jennifer Lopez」の楽曲を先にリリースされたことによりお蔵入りしてしまいます。
これによりサンプリングの元ネタは「Cameo/Candy」に変更させらてしまいました。
ちなみにこの曲は2020年のアルバム「The Rarities」というアルバムに20年の歳月を経てようやくオリジナルバージョンが収録されました。
グランドマスター・フラッシュとDJの技術
グランドマスター・フラッシュはスクラッチ技術や高度なDJミックスを広めた人物であり、スリップマットというDJにとって必要不可欠なアイテムを発明した人物でもあります。
スクラッチ自体は1977年の時点でグランドマスター・フラッシュの弟子の「Grand Wizzard Theodore(グランド・ウィザード・セオドア)」が偶然発明しました。
セオドアはある日自室でDJの練習をしていました。
曲を大音量で流していたため母親に注意されました。
セオドアは咄嗟に手でレコードを押さえ、誤ってレコードを手で前後させてしまい、その時に出た奇妙な音を気に入りました。
その後自身のDJプレイの際に頻繫に使用したのがスクラッチの始まりだそうです。
スクラッチはセオドアが発明し、フラッシュがスクラッチ技術を完成させました。
フラッシュは「クイックミックス」という昨今のDJが使用しているミックスの主要なテクニックも完成させています。
いわゆる「カット」という技術や「バックスピン(ブレーキン)」に加え、フェーダーテクニックやそれを応用したスクラッチ技術をほぼ完成させました。
DJの必需品の発明
前述の技術を理論上、物理的に成立させるために必要なアイテムが「スリップマット」の存在でした。
スリップマットとはターンテーブルとレコードの間にはさむ布製の下敷きの様なものでスクラッチをする際の摩擦を軽減し、レコードの消耗を抑える役割も担っています。
レコードやターンテーブルを触ったことが無い人には想像できないかもしれませんが、ターンテーブルには純正の「ゴム製のスリップマット」が付属していると思います。
DJは絶対にその「ゴム製のスリップマット」を敷いてDJプレイをしません。
理由は「レコードの消耗」、「針飛びの原因」、「レコードの滑りが悪くなる」からです。
この布製のスリップマットはフラッシュがフラッシュの母親に頼んで作ってもらったのが始まりでした。フラッシュの母親は縫製師でした。
フラッシュは当時スリップマットのことをWafer(ウエハー)と呼んでいたのだ。
複数形でウエハースかぁ。なんかお腹減ってきたなぁ…
まとめ
HIP HOPは「NYのサウス・ブロンクス」というゲットーで「ブロックパーティー」を通して徐々に形成されていきました。
そして“HIP HOPの三賢人”の「努力や研鑽」と「彼らの妹や母親」の協力によって今日のHIP HOPが形成されています。
偶然ではありますが、初期のHIP HOPは「女性のナイスアシスト」がカギとなっていました。
素晴らしいことですね!
今回は“HIP HOPの誕生の地”と“HIP HOPの三賢人”の講義でした。