東西抗争とは
1980年代末期、N.W.A.の成功により徐々に西海岸勢のHIP HOPも世間に認知されるようになりました。
しかし、西海岸のアーティストの楽曲はラジオやその他メディアではほとんど取り上げられませんでした。
1990年代に入ると東海岸と西海岸はディスソングをリリースし合います。
中でも2PacとThe Notorious B.I.G.の確執はLAとNYの確執として捉えられています。
今回はそんな戦いの歴史「東西抗争」の講義になります。
今回の講義で得られる知識
- 東西抗争とは
- メディアによる撹乱
- 東西抗争の犠牲者
ラジオでかからない西海岸
当時、音楽業界ではいかにラジオで楽曲をかけてもらえるかがプロモーションのカギでした。
しかし、NYのラジオ局では
「売れているのに」
「リスナーも聴きたいのに」
にも関わらず、西海岸勢の楽曲はほとんど流してはくれなかったそうです。
これには音楽業界の深い闇がからんでおり、贔屓やわいろが横行していました。
当時は「NYに住んでいたらNYのHIP HOPしか聴くことは無い」と大袈裟に揶揄されるほど生粋のニューヨーカーたちは地元NYのHIP HOPばかりをラジオDJによって聴かされていました。
例外的にNYのラッパーとLAのラッパーが共同で制作したものに関しては受け入れられました。
Ice Cubeのソロアルバム「AmeriKKKa’s Most Wanted」はPublic Enemy率いるボム・スクアッドがプロデュースしていたから例外的にラジオで流れていたのだ。
楽曲での確執
西海岸勢は東海岸勢以外にも
マイアミやシカゴと言った南海岸~中西部勢からも標的にされてしまいました。
これはそれほどまでに西海岸あるいはGangsta Rapが売れていたという証明でもあります。
単純に「売れ過ぎて妬んでいた」じゃないの?
そうかも知れないのだ。
ただ、Gangsta RapはHIP HOPの黎明期における文化的な側面でパラドックスを引き起こしていたのだよ。
NYはHIP HOPの誕生の地であり、
ギャングの暴力や犯罪から遠ざけるためのHIP HOPだったはずなのに西海岸勢のせいで
またギャングの暴力や犯罪の曲で蒸し返されるというのはNYの人々には抵抗があったのかも知れません。
標的はN.W.A.?
1991年にリリースされた
「Ultramagnetic MC’s」の弟分の
「Tim Dog」のアルバム
「Penicillin On Wax」に収録された
「F*ck Compton」という曲はタイトル通りN.W.A.の出身地であるコンプトンを名指しでディスりました。
MVでもローライダーに乗った「Eazy-Eっぽい人」が出てきていじめられています。
レイカーズやライダースのジャージ、ドジャースのLAキャップ、N.W.A.のメンバーが愛用していたロークというサングラスを燃やすというなかなかエグイMV。
このアルバムには
「DJ Quick Beat Down」
というスキットも収録されています。
正式には「DJ Quik」だから
単純に誤表記なのかそれともわざとなのか…。
マイアミの「2Live Crew」のフロントマンの「Uncle Luke」は
1990年ソロアルバム「The Luke LP」で
「F*ck A Gang」を収録。
1992年の2ndアルバム「I Got Shit On My Mind」で
「Fakin’Like Gangsters」を収録。
1993年の3rdアルバム「The Nude」では
Dr.Dreに対しての直接的なディスであるスキット「Dre’s Momma Needs a Haircut」と「Cowards In Compton」を収録。
ルークは1990年から1993年の3作品でほぼ毎年のようにGangsta Rap批判を繰り返しました。
西海岸の反撃
Dr.Dreはシングル
「F*ck Wit Dre Day(And Everybody’s Celebratin’)」と
B面の「Puffin’On Blunts And Drunkin’Tanqueray feat.Dogg Pound,The Lady Of Rage」でEazy-E(N.W.A.の確執)を含めたTim Dog、Uncle Lukeに対してアンサーソングをリリースしました。
その後、Tim Dogが「Dog Baby」で応戦しますが、このあとDr.Dreがさらにアンサーはリリースしていないと思います。
また、西海岸勢の「Tweedy Bird Loc」も
1994年のアルバム「No Holds Barred」に収録の「F*cc Miami」というマイアミに対してのアンサーソングをリリースしました。
1994年には「Common Sence」の楽曲
「I Use To Love h.e.r.」をリリース。
「h.e.r.」は「Hearing Every Rhyme」という意味と「Her」→「彼女」とかけています。
「Every Rhyme」はこれまでの全ての曲を聴いているという意味。
コモンは自身のラップ(ライム)との関係性を女の子に例え、「彼女がギャングと付き合いだしたことに失望している」とラップしました。
コモンに対し、LAのラッパーMack10はアンサーソングとして盟友Ice CubeとWCと共に1995年に
「Westside Slaughterhose」という曲をリリースします。
まだあるかと思いますが、大々的に取り上げられているのはここら辺の楽曲ではないでしょうか。
楽曲以外での確執
ここからは楽曲以外の東海岸と西海岸との確執についてになります。
The Showの裏話
1995年にDef Jam Recordings主宰のドキュメンタリー映画「The Show」が公開されました。
アーティストへのインタビューとフィラデルフィアで行われたライブや日本で行われたライブを軸に収録した映画でした。
しかし、フィラデルフィアでライブ中にハプニングが起きてしまいます。
西海岸勢のライブ中「Warren G」がプロモーション用のカセットテープを客席に向かって投げ、ファンサービスを行っていました。
しかし、あろうことか観客はそのテープをWarren Gに投げ返し、Warren Gに直撃してしまいます。
Warren Gはブチギレてステージを降りてしまいます。
それを見てSnoop DoggとDr.Dreもステージから降りてしまいます。
これは明確な「西海岸に対しての批判」と受け取られても仕方のない行為だったのかもしれません。
もちろん映画本編ではこのシーンはカットされてるよ。
レーベル同士の争い
そんな緊張感が漂うタイミングの1995年の8月に行われたソースアワードでは
Snoop DoggやDr.Dre率いるデスロウ一派がステージに上がると観衆にブーイングで迎えられました。
ちなみに南海岸勢のOutkastもステージに上がると大ブーイングを浴び、
メンバーの「Andre3000」は
有名なスピーチ「南部には言いたいことがある!」と言い放ち、
HIP HOPの流れを変え、2000年代以降のサウス主流の礎を築いたのだ。
デスロウの社長であるシュグ・ナイトはステージに上がりスピーチで「Bad Boy Records(東海岸勢)」に対し、宣戦布告します。
「アーティストになりたい奴、スターのままでいたいアーティストはデスロウに来い!」
「全てのビデオやレコードに出しゃばってくるエグゼクティブプロデューサーの心配をしなくてもいいぜ!」
と言い放ちました。
P.DiddyはBad Boy Recordsの楽曲のほぼ全てのMVに出演していたのだ。
楽曲にも「ン~、アハン、オーイエー」みたいな小さな声を入れています。
ヘッドフォンで是非聴いて欲しいのだ。
うわ、マジでウザいな…。笑
シュグにディスられたP.Diddyでしたが大人な対応を見せつけます。
自身のスピーチでは「俺が少し前に紹介されたエグゼクティブプロデューサーだ。」
「デスロウのドレーとシュグの偉業を非常に誇りに思っている。」
「西と東の揉め事はやめるべきだ!」
とシュグの挑発には乗らず、大人の対応を一貫しました。
1995年9月。
デスロウの社員であり、シュグの友人でもある「ビッグ・ジェイク(ジェイ・ロブレス)」はアトランタの「Platinum House」というクラブで
「Jermaine Dupri」の誕生パーティーに出席していました。
このパーティーのあとビッグ・ジェイクが何者かに襲撃され、亡くなってしまいます。
未解決事件として扱われていますが、
この日Bad Boy Recordsのボディーガードである「アンソニー“ウルフ・ジョーンズ”」と口論しているのが目撃されていました。
この事件をきっかけにシュグはBad Boy Recordsに対してさらに憎悪と敵意を剝き出しになります。
ロケバス襲撃事件
1995年9月、「Tha Dogg Pound」の
1stアルバム「Dogg Food」(アルバムのリリースは10月)の先行シングルとしてリリースされた「New York New York feat.Snoop Dogg」をリリースしました。
この曲の元ネタはビギーが出演した「St.Ides」という飲み物のCMのために書き下ろした曲でした。
プロデュースは西海岸の「DJ Pooh」が担当。
12月に「New York New York」のMVの撮影のためにNYを訪れたデスロウ一派でしたが、撮影中ロケバスが襲撃されてしまいます。
ビギーはラジオに出演した際に良かれと思って
「Dogg PoundとSnoop DoggがNYに撮影に来てるらしいぞ!」と告知してしまいました。
ビギーってそう考えるとつくづくタイミングの悪い男だね…。
ロケバスの襲撃を受けたことによってかの有名な「NYの建物を巨大化したSnoop Doggが蹴り倒す」というシーンを追加しました。
この曲は「西海岸がNYに対してディスを送ってきた」と解釈される節が多いですが、実は元々はNYを称えるトリビュートソングでした。
しかし、時世が悪かったせいでディスソングとして捉えられNY勢の
「Capne-N-Noreaga」の楽曲
「LA,LA feat.Mobb Deep&Tragedy Khadafi」という曲で1996年4月に応戦されてしまいます。
ちなみに未発表ではありますが、
DJ QuikがプロデュースしたDogg Poundの楽曲「NY87 feat.2Pac&Deadly Threat」は「LA,LA」のアンサーソングでした。
2PacとNotorious B.I.G.の確執
1994年11月30日NYのクワッドスタジオがあるビルのエントランスで2Pacが何者かに襲撃されますが、一命を取り留めます。
この事件の犯人を2Pacは友人である
「Notorious B.I.G.(ビギー)」と同じく友人であるプロデューサー兼ラッパーの「Stretch」だと思い込んでしまいます。
2Pacの暴走
2Pacはビギーの楽曲「Who Shot Ya」を聴いて勘違いしたのでは無いかと言われています。
ビギー陣営はこの曲は2Pacが襲撃される以前のもので全くの無関係であることを主張しました。
元々は2Pacとビギーはビギーがデビューする前からの友人であり、
NYに2Pacが来たらビギーが2Pacをもてなし、
LAにビギーが来たら2Pacがビギーをもてなしていました。
P.DiddyはBad Boy Recordsを立ち上げる際、
2Pacを勧誘していますし、
ビギーは2Pacをメンターとして慕っていました。
2Pacが自身のグループ「Thug Life」を立ち上げた際はビギーをメンバーに誘っています。
1994年11月30日、2Pacがクワッドスタジオに向かった理由は「Little Shawn」というラッパーの「Dom Perignon feat.Notorious B.I.G.」という曲のRemixに参加する予定でした。
襲撃後、2Pacは女性ファンへの性的暴行容疑で刑務所に入ってしまいます。(おそらく1995年2月~)
VIBE誌は1995年4月号で2Pacとビギーの確執を特集してファンたちを煽りました。
1995年10月、2Pacはデスロウと獄中で契約をし、保釈金を肩代わりしてもらい2Pacは出所しました。
ちなみに東西抗争と言われている時期の真っ只中でしたが、
2Pacは1995年11月4日のP.Diddyの誕生日パーティーに招待され、
普通に出席しています。
でもかなり不機嫌だったらしいのだ。
2Pacはデスロウに入ったことで「Gangsta」や「Westside(ウエッサイ)」というワードをしきりに使うようになり、以前より攻撃性が増していきました。
実際、シュグの「復讐のコマとして使われていた」のではと思ってしまいます。
1996年にBad Boy Recordsの面々+Mobb DeepやChino XL、Nasなどをけちょんけちょんにディスった曲「Hit Em’Up」をリリースします。
「Hit Em’Up」のレコーディングは出所後すぐに行われました。
2Pacいわく「自分とビギーの問題なのにメディアや他のラッパー達がチャチャを入れてきた」ということを言っており、
本当は東西抗争なんてどうでもよかった様です。
東西抗争の終焉
1996年Dr.Dreがデスロウから独立し、
立ち上げたレーベルAftermathからの
シングルで東西のアーティストを集めて制作された「East Coast/West Coast Killas」という楽曲は
「東西抗争なんて馬鹿げてるから辞めよう!」という趣旨の曲をリリース。
2Pacが亡くなる前の1996年の8月にリリースこそされていますが、東西抗争ひいては2Pacやビギーへの襲撃は止まりませんでした。
1996年VIBE誌の9月号(発売は8月)では「イースト対ウエスト:ビギーとパフィーが沈黙を破る」という完全な煽りムーブをかまします。
1996年9月7日に2Pacは凶弾に倒れ、9月13日に亡くなってしまいます。
その半年後の1997年3月9日にビギーも凶弾に倒れ亡くなってしまいます。
ちなみに2人とも亡くなる前にアルバム制作を行っており、両海岸の和平を願った曲を各々リリースする予定でした。
それを完全に無視してVIBE誌は雑誌の売り上げのために世間を煽るだけ煽りました。
この2人のラッパーが亡くなったことにより東西抗争は収束していき一気に追悼ムードになりました。
正直、この東西抗争で得をしたラッパーはいません。
レーベルやメディアが煽って「金儲けの道具として使われただけなのでは」と思ってしまいます。
まとめ
こうして出来事をまとめてみると
「そもそもNYとLAはとにかく反りが合わない」
というのと「とことんタイミングが悪い」に尽きると思います。
NYとLAの優劣なんて正直無いですが、
「俺の地元の方がイケてる」という考え方が特にNYのラッパーやNYに住む人たちに多い様に感じます。
これに関しては日本でも「東京か地方か」みたいなものなのでしょうか。
この機に乗じてレーベルもメディアもお金儲けのためにディスソングを作らせたり、あることないことを発信したりと業界の闇がスゴイと感じる出来事でした。
今回はHIP HOPの文化における悲しい出来事「東西抗争」の講義でした。