オールドスクールHIP HOP
オールドスクールの本来の意味は「母校」であったり「保守的」という意味です。
しかし、HIP HOPでいうオールドスクールとは「HIP HOPの第一世代」や「HIP HOPの黎明期」を指す言葉であり、「旧世代のHIP HOP」という意味になります。
主に1970年代初頭(HIP HOPが誕生した辺り)~1984年頃までのHIP HOPの文化を指す言葉として使われます。
今回はHIP HOPの黎明期「オールドスクール」についての講義になります。
今回の講義で得られる知識
- オールドスクールとは
- ヒップホップが及ぼした影響とは
- 活躍したアーティスト
オールドスクールとは
HIP HOPで認識されている「オールドスクール」という言葉は「旧世代」や「始まりの世代」という風に表現されることが多いです。
残念ながら明確に「これはアーティストはオールドスクールだ」とか「この曲はオールドスクールだ」と断定することは出来ません。
なぜなら当時のアーティスト達は自分たちが「旧世代のアーティスト」だと思って活動していなかったからです。
そりゃあそうだよね!
つまり「オールドスクール」という言葉はこの後に続く「ニュースクール」ありきの言葉なのだ。
「オールドスクール」の対義語が「ニュースクール」です。
ちなみに英語では「Old School」とも「Old Skool」とも表記されますが、特に違いはありません。
オールドスクールの特徴
オールドスクールの時代はブロックパーティー発祥の文化ということもあり、 「DJが主体」でした。
また、「オールドスクール以降」はどちらかというと「ラッパーやプロデューサーが主体」になっていきました。
日本では本国アメリカには存在しない“ミドルスクール”という時代分けがありますが、極めて曖昧なくくりになるため、会話の中で“ミドルスクール”という言葉は基本的に使わない方がいいでしょう。
オールドスクールの楽曲はブロック・パーティーのノリを重視していました。
基本的に初期の音源はパーティーラップと呼ばれるものが多く、ラップの内容(メッセージ性)やスキル、フロウ、ライミングが乏しかったという特徴があります。
1982年リリースの「Grandmaster Flash&The Furious Five/The Message」以降はリリックやスタイルを意識した楽曲が増えてきました。
HIP HOPの音源化
1979年にHIP HOP(ラップ)の音源が初めてシングルレコード化されました。
「The Sugarhill Gang」、「Kurtis Blow」、「Grandmaster Flash&The Furious Five」などが次々に1979年にシングルをリリースしました。
続く1980年には「Funky4+1」が「That’s The Joint」をSugarhill Recordsからリリース。「Taste Of Honey/Rescue Me」の大ネタ使い。
1980年リリースの「Kurtis Blow/The Breaks」がHIP HOPのレコードで始めてゴールドディスクに認定されました。
「The Breaks」はサンプリングでは無く、全てバンド演奏で制作されています。
「Funk」の延長とも取れるものの、メランコリックなパーカッションはHIP HOPが新たな可能性を模索していた時代の象徴でもあります。
HIP HOPビートの在り方を変えたと言っても過言ではありません。
この曲は「定番のネタ」となり、のちに数々の曲でサンプリングされました。
パーティー志向からの脱却
1982年に「Grandmaster Flash&The Furious Five/The Message」が移籍先のSugarhill Recordsからリリースされ、HIP HOPの歴史が大きく動き始めます。
この曲はゲットーでの生活を描いた曲であり、メッセージ性や意識が高い曲になりました。
のちの「コンシャスラップ」や「Gangsta Rap」というストリートミュージックの礎になった曲でした。
しかし、パーティーノリの曲を出したかった他のメンバーはこの曲に参加せず、実質「Melle Mel(メリ・メル)」のソロ曲でした。
他のメンバーはクレジットだけ載っているだけの状態でした。
続く、1983年の「Grandmaster&Melle Mel」名義でリリースされた「White Line(Don’t Do It)」はアンチドラッグの曲でメッセージ性、話題性は抜群で売り上げも良好でした。
しかし、この時フラッシュはSugarhill Recordsとロイヤリティ問題で離反し、レーベルを去ってしまいます。
レーベル側はまだフラッシュがレーベルに残っているかの様に見せかけ「Grandmaster&Melle Mel」という誤解を招くような名義でリリースしました。
実際にはこの曲もMelle Melのソロ曲でした。
この曲は後に
「Mobb Deep/Quiet Storm」
日本では「キングギドラ/トビスギ」でサンプリングされているのだ。
エレクトロヒップホップとは
1982年に「Afrika Bambaataa&Soul Sonic Force」が「Planet Rock」をリリース。
バンバータはバンドサウンドを再現するために既存の楽曲のまんま使いのサンプリングでは無く、打ち込みでビートを作り始めました。
この時、ローランド社の「TR-808」というドラムマシンを使用していました。
ローランド社って日本の企業なんだよね!
このスタイルの曲は後に「エレクトロヒップホップ」と呼ばれる様になり、Dr.DreやDJ Yellaが所属していた「World Class Wreckin’Cru」や「The Egyptian Lover」の様な西海岸アーティストにも影響を与えます。
また、「マイアミベース」という主にマイアミ周辺で流行した新たなジャンルを生み出すきっかけにもなりました。
「Whodini(フーディニ)」は1982年に結成され、1982年に「Magic’s Wand」という曲をリリースします。
曲自体は打ち込みで作られており、「Afrika Bambaataa&Soul Sonic Force/Planet Rock」の様にエレクトロヒップホップを基調にしていました。
この曲はラップ曲で恐らく始めてMVが制作された曲でした。
MVでダンスをしているシーンもあえてブレイクダンスでは無くロッキンダンスにしている所も見逃せない時代の移り変わりを感じます。
- Whodiniについて
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WhodiniはイギリスのレーベルであるJIVEと契約して「ラッセル・シモンズ」が運営していた「ラッシュ・マネジメント」でマネジメント契約を交わしていました。
1983年リリースのセルフタイトルアルバムである「Whodini」で後のDef Jam Recordsの2大プロデューサーの1人「ラリー・スミス」がプロデュースしました。
1984年にも名作アルバム「Escape」でも「ラリー・スミス」がガッツリプロデュースしました。永遠のクラシックである「Friends」を制作します。
このアルバムはHIP HOP史上始めてプラチナディスクに認定されました。
その後は徐々に売り上げが下がっていってしまいますが、通算6枚のアルバムをリリースし、4枚のアルバムがプラチナディスクに認定され、HIP HOP界では大御所の地位を築きました。
また、のちの「ニュージャック・スウィング」というサブジャンルの隆盛にも貢献しました。
大御所達の「HIP HOP」の解釈
オールドスクールの後半は(1983年頃)ジャズやロックの大御所達が「HIP HOPという新しいジャンル」に感化されて実験的に楽曲を制作していた時代でもありました。
文化を丸ごとサンプリング?!
1983年に「セックスピストルズ」の元マネージャーだった「Malcolm McLaren(マルコム・マクラーレン)」がHIP HOPとスクラッチサウンドに感化されてリリースした「D’ya Like Scratchin’」は全くHIP HOPとしての出自が違うものの、エレクトロで実験的でアヴァンギャルドなスタイルの新たなHIP HOPを作り出しました。
マルコムは当時のHIP HOPの要素を曲単位では無くHIP HOPの文化の要素をほぼ丸ごとサンプリングし、リパッケージしました。MVも存在します。
のちに様々なアーティスト達にサンプリングされ続ける名曲が詰まったEPでした。
収録曲の「Buffalo Gal」は「Eminem/Without Me」でサンプリングされています。
「She’s Loking Like A Hobo」もJanet Jackson、A Tribe Called Quest、De La Soul等にサンプリングされています。
「World’s Famous」も「AZ/Firm Biz feat.The Firm*(Remix)」でサンプリングされたり、「A Lighter Shade Of Brown/World Famous feat.Rappin’4-Tay」や「Amerie/Some Like It」の様なR&Bでもサンプリングされています。
*The FirmはDr.DreがプロデュースしたNas、AZ、Cormega、Foxy Brownが参加したヒップホップドリームチーム。「AZ/Firm Biz feat.The Firm(Remix)」はAZのMIX Tapeに収録されている。
「Duck Rock」に参加した「World’s Famous Supreme Team」は1984年に「Hey DJ」をリリースし、キャッチーなMVとノリの良さでヒットし、「A Lighter Shade Of Brown/Hey DJ」や「AZ/Hey AZ feat.SWV」でサンプリングされています。
AZとA Lighter Shade Of Brownはマルコム関連の作品に影響を受けてるんだね。
日本でもお馴染みのHIP HOP
ジャズの巨匠「Herbie Hancock(ハービー・ハンコック)」もエレクトロ・ヒップホップとスクラッチサウンドに触発され1983年に「Rock It」をリリース。
「Bill Laswell(Material)」がビートを制作し、「Grandmixer D.S.T.」がスクラッチを担当しています。
強烈なMVだねぇ…
日本では「踊るさんま御殿」にて長年、再現VTRの際に流れている曲がこの「Rock It」なのだ。
ちなみに「Run DMC/Walk This Way」は主題歌になっているのだ。
また、「Janet Jackson/So Excited feat.Khia」やその他ダンスミュージックでサンプリングされています。
HIP HOPの映画化
1983年には映画「Wild Style」が公開されました。監督はチャーリー・エーハン。
この映画はグラフィティを主体に据えた作品で82年からコツコツ制作されており、まだオールドスクール全盛期のブロック・パーティーを体感できる貴重な作品です。
いわゆるHIP HOPの4大要素(DJ、Rap、Grafitti、Break Dance)を全て網羅しています。
オールドスクール時代に活躍したアーティスト達が総出演しているのだ。
この時代のヒップホップが好きな人にはたまらない映画だね!
観たことがないという方には是非観てもらいたい1本です。
また、1983年には「Style Wars」、「Flash Dance」1984年には「Beat Street」などのHIP HOPダンスを題材にした映画が公開されました。
いずれもオールドスクールの時代感を感じられる作品となっています。
こちらも是非!
西海岸のオールドスクール?!
全国的な知名度はそれほどなかったものの、オールドスクールの時代に西海岸でもアーティストがちらほら出てき始めました。
「LA Dream Team」や「Uncle Jamm’s Army(のちの「California Catt Crew」)」は1970年代末期にはすでに地元ロサンゼルスで活躍していました。
信憑性は全く無いものの、「ラップの発祥は西海岸だ」と主張する説も存在する位なので確かに西海岸にも当時HIP HOPのシーンは存在していたことの証明になるかと思います。
また、「Afrika Bambaataa&Soul Sonic Force/Planet Rock」の影響を受けて「The Egyptian Lover/Egypt Egypt」(1984年)が西海岸でヒットします。
1980年代後半から本格的に西海岸のラッパー達が注目を浴びる様になります。
まとめ
HIP HOPが誕生した1970年代。
初音源がリリースされた1979年。
HIP HOPという文化や音楽を解釈するためにあらゆる方法を用いて制作された音源や映画。
どれもまだまだ粗削りな部分が残りつつも試行錯誤を重ね、文化的にも音楽的にブラッシュアップされた1980年代。
のちのアーティスト達がリスペクトを込めてこの時代を「オールドスクール」と呼び、永遠に語り継がれる古き良き時代の歴史についての講義でした。