ヒップホップ誕生前夜
HIP HOPは1973年頃からその文化が始まったと言われています。
HIP HOPが生まれて約50年が経ちました。
現在は華々しいHIP HOP界隈ですが、HIP HOP誕生にはマイノリティ*の様々な苦難と戦いの日々がありました。
*マイノリティ=少数派。アフリカ系アメリカ人やヒスパニック系を含む有色人種のことを指します。
今回はそんなブラックミュージックの中でもなかなかの古株となった「HIP HOPが生まれるまで」の講義になります。
今回の講義で得られる知識
- アメリカにおけるマイノリティについて
- 差別と貧困との闘い
- 貧困の中でのマイノリティの心の支え
1800年代-無くならない差別。
イギリスの植民地であったアメリカ。
1700年代後半から奴隷商人たちによりアフリカから奴隷が大量に送り込まれました。
1776年にアメリカはイギリスから独立します。
しかし奴隷たちは解放されず、
むしろアメリカにとって必要不可欠な労働力として奴隷たちの労働に依存していました。
南北戦争中の1863年「エイブラハム・リンカーン大統領」により奴隷解放宣言が発布されます。
1965年頃から徐々に奴隷が解放されていき、アメリカ国内の奴隷制度は実質的に廃止されていきます。
しかし、人種差別はまだ根強く残っていました。
1865年には白人至上主義団体である
「クー・クラックス・クラン(KKK)」*という秘密結社が結成されました。
*全身白装束で白の三角帽をかぶってデモ活動や集会をするというオカルティックな集団。
悪法ジム・クロウ法とは
1876年には人種隔離政策である「ジム・クロウ法(ジム・クロウ制度)」という悪法がアメリカ南部の多くの州で採用されました。
「隔離」と「差別」は別物として扱われ、公然と「隔離」という「差別」を法律で認められていました。
「ジム・クロウ法」は白人と有色人種を隔離する法律であり、公共施設を含むバーやレストラン、ホテルなどは有色人種の立ち入りを制限されました。
この悪法は1964年まで約90年続きます。
「ジム・クロウ」とは1830年代にニューヨークで流行したミンストレル・ショー(演劇、ミュージカル)の演目である「ジャンプ・ジム・クロウ」が元ネタです。
白人が顔に黒塗りメイクをしてステレオタイプな黒人を演じるというものでした。
有色人種には混血(ハーフやクォーター)も含まれており、ネイティヴアメリカンや黄色人種(日系、アジア系)、ヨーロッパ系では無い人たちも含まれていました。
有色人種が利用できるかどうかは1936年から発刊された「グリーンブック」という旅行者のためのガイドブックで記されており、1966年まで毎年改正され発刊されていました。
この「グリーンブック」をタイトルに冠した映画も2018年に公開され、マイノリティの生き辛さをテーマに据えた実話映画もあります。
1950年代-公民権を巡る謀略の戦場
1950年代に入ると公民権運動が活発化し、「ロサ・パークス」や「マルコム✕」、「マーティン・ルーサー・キング牧師」などが活躍します。
1964年に「リンドン・ジョンソン大統領」がアメリカ国内の人種差別を禁止する法律である「公民権法」を制定し、ジム・クロウ法は廃止となりました。
それでも未だ差別は無くなりません。
また、同じ年にキング牧師はノーベル平和賞を受賞し、非暴力抵抗運動を一貫して行っていました。
「I Have a Dream…」という演説は彼の名演説の1つだよね。
公民権法により、選挙に参加し、議員や市長、生活環境、労働環境が向上し、一部のマイノリティ達の社会進出が進む一方で大部分のマイノリティ達は未だ取り残されていました。
相次ぐリーダーの消失
1965年2月、マルコム✕は自身も信仰していた「ネイション・オブ・イスラム(NOI)」の信者との思想の乖離により反感を買い、ニューヨークのワシントン・ハイツで闇討ちに遭い命を落とします。
このワシントン・ハイツはヒスパニック系の人々が多く住むプロジェクト(団地)でした。
貧困や差別にも負けず懸命にワシントン・ハイツで生きる人々を題材にしたミュージカル映画「イン・ザ・ハイツ」も2021年に公開されたのだ。
2015年に公開された「N.W.A.」の伝記映画「Straight Outta Compton」のDr.Dre役の「コーリー・アントニオ・ホーキンス」も出演してるんだよね。
続いて1968年4月にはキング牧師もテネシー州メンフィスに滞在中に「ジェームズ・アール・レイ」という人物に
後日行われる予定だったデモの打ち合わせ中に闇討ちされ命を落としてしまいます。
キング牧師が亡くなった後、
全米の152都市で暴動が相次ぐようになってしまいます。
新たなリーダーと脅威
マルコム✕が亡くなった後、「ヒューイ・パーシー・ニュートン」、「ボビー・シール」らが中心となりブラックパンサー党をカリフォルニア州オークランドで結成。
キング牧師の門下生である「ジェシ・ジャクソン」が1971年「PUSH(People United to Save Humanity)」を組織。
元ブラックパンサー党の情報相である「エルドリッジ・グリーヴァー」が発案した「ブラック・イズ・ビューティフル」という思想を基にアフリカ回帰思想が広まり、アフロヘアーやダシキと呼ばれるアフリカの民族衣装が流行しました。
こうして団結し、力をつけ始めるマイノリティ達を恐れ白人達は都市部を離れ、郊外へと移住してしまいます。
そうなると都市部にマイノリティ達が取り残され都市部は荒廃し、いわゆる「ゲットー(スラム、貧困街)」が次々と誕生してしまいます。
1970年代-インナーシティの崩壊
1961年から続くベトナム戦争へのアメリカの介入はアメリカ国内の景気に大打撃を与えました。
「リチャード・ニクソン大統領」*が1973年に軍を撤退するも、なおインフレや失業率は上がり続け、さらに都市部が荒廃しギャング団が形成され、ますます貧困がマイノリティ達を襲います。
*リチャード・ニクソン大統領は「ウォーターゲート事件」という政治スキャンダルでの失態により、弾劾され辞任した初の大統領でした。
また、この頃NYでは大規模な都市開発が行われていました。
住む場所を追われた人々は各々の人種で新たなコミュニティを形成しました。
そんな中ブロック・パーティーは「貧困や差別の苦しさを紛らわすために」1970年頃から密かにNYのゲットーの街角を中心に流行していきます。
ブロック・パーティーとは
HIP HOPの発祥の地として有名な「サウス・ブロンクス」が当時一番ホットなスポットでした。
実際には「ブロック・パーティー(ストリート・パーティー)」と呼ばれるものはずっと昔から(第一次世界大戦時)存在していた様です。
祝賀会や感謝祭、近所に引っ越してきた家族を迎えるパーティーを地元の人々が行ってくれていました。
ブロックパーティーは基本的に野外パーティーであり、BBQをしたりダンスや歌を歌ったりしていました。その時に必要だったのはやはり音楽でした。
DJ達が音楽をかけ、マイクで煽りを入れる…これがHIP HOPの原初の形となります。
ちなみにDJ機材やスピーカー、照明は町の街灯から電源を引き込んでいました。
通常であれば警察官が見たら注意や最悪逮捕になり兼ねない行為ですが、「彼らの唯一の楽しみ」を奪うことはせず、見逃す警察官が多かったそうです。
意外にこの頃の警察官ってイイ人達なのかも!
違うのだ。くまごろう。
実際はブロック・パーティーをやっている間は面倒事を起こさないから放置していたみたいなのだ。
文化としてのHIP HOPはこの年代(1970年代初頭)からスタートしますが、ジャンルとしてのHIP HOPの形式は1979年頃、あるいは1980年代初頭に形成されました。
まとめ
奴隷時代、隔離や差別と言った「アメリカの負の歴史」を知ってこそ
HIP HOPの文化や歴史を深く理解するための一歩だと思っています。
現在はインターネットの普及やSNSでの拡散のおかげで多少差別への認知や対処は改善がなされてきていると思いますが、やはりまだまだマイノリティへの差別は無くなっていません。
これをきっかけに「他人種とどう向き合うべきか」今一度考えてみるのも良いことだと思います。
今回はHIP HOPが生まれるまでのマイノリティ達が虐げられた歴史の講義でした。