Gangsta Rap
1980年代末期、HIP HOPに新たなサブジャンルとして「Gangsta Rap」が誕生しました。
Gangsta Rapは
「ハードコアラップ」
「コンシャスラップ」
「ストリートラップ」
「リアリティラップ」
など様々なスタイルの要素を取り込んだサブジャンルです。
主にこの時代の西海岸のHIP HOPを指す言葉でした。
とは言ったものの「Gangsta Rap=西海岸HIP HOP」というイメージとは裏腹にGangsta Rapの始祖とされる人物はフィラデルフィアの「Schoolly D」でした。
実際、N.W.A.やその周辺アーティストが活躍していたため「Gangsta Rapと言ったらN.W.A.」というイメージが強いと思います。
今回は色々と物議を呼んだGangsta Rapの歴史の講義となります。
今回の講義で得られる知識
- Gangsta Rapとは
- Gangsta Rapが与えた影響
- 活躍したアーティスト
Gangsta Rapとは
Gangsta Rapの歴史を紐解いていくとHIP HOPのルーツに少し似ています。
マイノリティが「虐げられた歴史」とアーティスト達が「育った環境」が似ています。
しかし、決定的な違いとして
NYのHIP HOP黎明期はギャングを排除しようと新しい文化を根付かせたのに対して
LAのGangsta Rapはまるでギャング文化を賞賛するかのような振る舞いをしていたという違いがあります。
ジャンルとしてのGangsta Rap
Gangsta Rapという用語はメディアが作り出した言葉であり、
実際ラッパーたちは「Gangsta Rapというジャンルをやっている」と基本的に思っていなかったようです。
正確にいうと1989年のロサンゼルス・タイムズの記事でラッパーのIce-Tの紹介をする際に「ロバート・ヒルバーン」というライターが用いた言葉です。
「ゲットーでどんな風に生活しているのか」
「どんなモノを観てきたのか」
それらをリアルに掻き集めてリポートする音楽が「Gangsta Rap」という言葉に押し込められて、ジャンルとして収まったというのが正しいと言えます。
LAでギャングが生まれた背景
当時のアメリカは1960年代から続く不況と明確なマイノリティ達の指導者の不在に加え、人種差別によってマイノリティ達は苦しめられていました。
もちろん一時的に「マルコムX」や「キング牧師」の様な指導者もいましたが、その指導者も次々に凶弾に倒れ、全米152の都市にゲットーを形成しました。
1965年ワッツ暴動が勃発し、ほぼ同時期にカリフォルニア州のオークランドではブラックパンサー党が結成されました。
深刻な失業率や治安の悪化によりマイノリティ達の生活の保障や生活の向上は望めませんでした。
当時、特に治安の悪かったLAには大小様々なギャング団が結成します。
ここまではNYのHIP HOPと同じ流れだね!
CripsとBloods
1969年に青をシンボルにしたギャングの「Crips」の前駆体である組織が結成されます。
最初の頃は自警団だったのだ。
でも段々規模が拡大していって統制が取れなくなってギャング団になってしまったのだよ。
1980年代~1990年代前半頃が全盛期にあたりますが、現在も世界中に支部が存在する伝説的なギャング団です。
そして、Cripsの暴力に対抗する形で1972年に赤をシンボルにした「Bloods」が組織されます。
このLAの2大ギャングに加え、ヒスパニック系(チカーノ)ギャングも勢力を伸ばしていきました。
チカーノというのはメキシコ系アメリカ人や2世以降のことなのだ。
「Homie Keiさん」は
「チカーノになった日本人」
という自伝本を出して2000年代後半くらいから色々なメディアで取り上げられたよね!
ギャングという文化
ギャング文化は深刻な社会問題として扱われる一方で大衆文化としての側面も有しているのも事実です。
その大衆文化や娯楽といった中に「Gangsta Rap」は内包されているのだよ。
例えば日本においても任侠映画(Vシネマ)が人気があるのと同じようにアメリカでもそういった娯楽としてのギャング文化が人気だったりします。
その脅威が及ばないであろう地域に住む人たちからすれば
「そういう文化もあるんだな。」位の感覚なのかも知れませんが、
Gangsta Rapが提供するリアルな現場はそうそう甘いものではありません。
LAのある地域では抗争により、16歳まで生き延びることが非常に困難な地域も存在していました。
そこに住むリアルな生活をリポートしていたラッパーたちは「なんの悪びれも無く」とにかく彼らの日常をラップに投影していました。
Gangsta Rapが流行していた当初、
リスナーの大半はその境遇とは対極に位置する白人の若年層が多かったというデータもあります。
「現実逃避的な怖いもの見たさ」が
Gangsta Rapの流行を支えていたというのはなんとも皮肉な事実だね。
LAの快進撃とNYの大敗
1980年代末期~1990年代中盤頃まで
HIP HOPの主流はGangsta Rapに奪われてしまいました。
LAの勝因
東海岸勢はポップ路線ではまず勝ち目が無いことを悟り、ハードコア路線を強めていきました。
中でもN.W.A.の存在は強烈だったため
東海岸勢もこのGangsta Rapに対抗すべく「Mafioso Rap」というハードなスタイルを打ち出します。
しかし、この頃西海岸勢は
1992年の「Dr.Dre/The Chronic」
1993年の「Snoop Doggy Dogg/Doggy Style」
を皮切りに一転「G-Funkスタイル」を展開。
ドライブにぴったりなゆったりと腰を据えたヨコノリスタイルは車社会のアメリカに刺さり
NYのハードコアスタイルは完全に裏目に出てしまいました。
この時代の東海岸勢は完全にペースを奪われてしまいます。
逆に西海岸勢はG-Funk人気に乗ってどんどん勢いを増していきます。
もちろん、この不毛と呼ばれた時代にも東海岸勢のクラシックが存在しているのだ。
のちのち隠れた名盤もいっぱい発掘されたのだよ。
NYの敗因
一時代を他の地域に奪われてしまったのは東海岸勢にも原因があります。
NYのラジオ局は当時わいろが横行しており、偏屈なラジオDJのせいでNY以外のHIP HOPを基本的に流しませんでした。
NYの人々も「NYっ子」を前面に押し出し、NY以外の地域は全て田舎として捉えていました。
その傲慢さは西海岸や南海岸に大きく遅れを取り、時流に乗れませんでした。
多様性を取り入れなかった東海岸勢の敗北は決定的でした。
しかし、東海岸勢としては1970年代に
ギャングを廃するために生まれたはずのHIP HOPが
また1980年代にギャングを賞賛するようなGangsta Rapを作り出してしまうというのは複雑な気持ちだったと思います。
そして現代も時代が繰り返されて「Drill」というGangsta Rapが流行しちゃってるよね。
Gangsta Rapの歴史
ここからはGangsta Rapを生み出した人物や人気を獲得した人物についてです。
Gangsta Rapの始祖
N.W.A.の存在が大き過ぎるがゆえに「Gangsta Rap=N.W.A.」というイメージが強いと思いますが、
西海岸で初めてGangsta Rapをレコーディングした人物は「Ice-T」でした。
Ice-Tが影響を受けた人物はGangsta Rapの生みの親的存在の「Schoolly D」です。
そしてSchoolly Dが影響を受けた楽曲が「Grandmaster Flash&The Furious Five/The Message」(1982年)でした。
さらに元を辿ると
「Spoonie Gee」というラッパーの「Spoonin Rap」(1979年)という楽曲が一足早く「ハスリンラップ」を取り入れていました。
最近になって一番最初にハスラー的なラップをした人物として「Spoonie Gee」が挙げられることも多くなったのだ。
- Spoonie Geeとは
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Spoonie Geeは「トレイチャラス・スリー」というグループのオリジナルメンバーであり、Enjoy Recordsというオールドスクール時代レーベルの創始者が親戚でした。(なぜかSpoonie GeeはEnjoy Recordsではリリースしていない)
初期の「Grandmaster Flash&The Furious Five」の楽曲はEnjoy Recordsでリリースしていました。
Schoolly D
Schoolly Dは1984年頃に「Gangster Boogie」という曲を自主制作しました。
地元フィラデルフィアのラジオ局に持ち込むも内容が過激過ぎるためかけてはもらえませんでした。
また、どこのレーベルもこの曲をリリースしてくれませんでした。
ちなみにこの曲を流すのを拒否した人物はラジオパーソナリティの「Lady B」という人物。
Lady Bってフィラデルフィアで初めてヒップホップを広めたラッパーでもあるんだよね。
Schoolly Dは自分でレーベルを運営して自分でリリースすることにしました。
この時代自主レーベルを保有しているラッパーはSchoolly Dだけでした。
彼は器用で才能があったためアートワークから楽曲制作、流通とプロモーションの全てを基本的に一人でこなしました。
幼少の頃からJazzやFunkをよく聴いていたSchoolly D。
ドラム(ビート)、ギター、キーボードのほぼ全てを一人でやりきり、1985年「P.S.K.What Does It Mean?」をリリースします。
この曲はリバーブ(エコーみたいな反響音)が効き過ぎというほどかかった独特な浮遊感がある曲でした。
P.S.K.は「Park Side Killers」の略で彼が所属していたギャングのチーム名。
決して流通量が多くないのにも関わらず、
当時のリスナーには衝撃的な内容であり、
その後のアーティストやプロデューサー達に多大な影響を与えました。
そしてその一人がIce-Tでした。
Ice-T
Ice-Tは実際に「6 In The Mornin’」という楽曲を制作する際、Schoolly Dに電話してアドバイスをもらっています。
「6 In The Mornin’」は
「あるギャングのある一日に密着してみた」的なストーリーの曲でした。
LAでは「リアルなギャングの日常」というテーマが刺さり、地元でヒットします。
以降、このギャングの日常を描いたスタイルは後続のラッパー達が模倣することになります。
- ICE-Tとは
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Ice-Tは幼い頃に両親を亡くしており、
LAに移り住み、2大ギャングであるCripsに加入しました。18歳になると当時付き合っていた彼女に子供ができたことをきっかけにお金を稼ぐためにアメリカ陸軍に2年間入りました。
従軍中に「The Sugarhill Gang/Rapper’s Delight」を聴いてHIP HOPにハマります。
そして遠征先のハワイでDJセットを購入し、退役後にDJとしてLAのクラブでDJ活動を開始します。
また、DJプレイ中にラップも披露していたそうです。
1978年頃からイベントを行っていた老舗クルー「Uncle Jamm’s Army」に加入。
この時「Egyptian Lover」や「DJ Pooh」、「DJ Bobcat」などと一緒に活動をしていました。映画「Breakin’」と「Breakin’2」に出演し、ラッパーとしてソロデビューも果たします。
そして1986年に「Dog’n The wax(Ya Don’t Quit Part2)」という曲をリリースし、そのB面に「6 In The Mornin’」が収録されていました。
プロデュースしたのは「Unknown DJ」。1987年にワーナーブラザーズの傘下のSire Records(サイアーレコーズ)から満を持して1stアルバム「Rhyme Pays」をリリース。
この時のプロデューサーは「Afrika Islam」でした。
アルバムはゴールドディスクを獲得する快挙となりました。「Uncle Jamm’s Army」が1988年に解散し、「California Catt Crew」として再結成されたタイミングでIce-Tは独立しします。
仲間のラッパー達と「Rhyme $yndicate」というレーベルを同年に設立します。
実際にはマネジメント会社としての役割の方が強いイメージです。
ちなみに$yndicate Studioというスタジオも所有しています。
1988年には映画「Colors」に出演+サウンドトラックにも参加し、映画のオープニングを飾りました。この年に2ndアルバム「Power」をリリース。
西海岸勢でありながらプラチナディスクを獲得し、ラッパーとしての地位を固めていきました。現在はHIP HOP界のご意見番的ポジションを築いています。
ソロとは別プロジェクトとしてハードコアパンクバンド「Body Count」を1990年代初頭から本格的に活動し始めます。
メンバーは高校時代の友人たちです。Ice-Tは若い頃、従兄がよくロックを聴いていたため自身もロックを好んで聴いていました。
1992年にバンドとしての1stアルバム「Body Count」をリリースしようとしますが、収録曲の「Cop Killer」はその過激な内容から親会社のワーナーブラザーズが手を引いてしまうほどのエグさでした。
Ice-Tはソロで8枚、バンドで6枚のアルバムをリリースしています。
N.W.A.
N.W.A.は1987年頃から本格的に動き出します。
N.W.A.のリーダーEazy-Eは
シングル「Boyz-N-The Hood」を自身のレーベル「Ruthless Records」からリリースします。
「Boyz-N-The Hood」は地元でヒットし、支持されました。
「Cruisin’Down The Street In My 64~…」
というEazy-Eの歌い出しのフレーズはのちのラッパー達のリリックにも度々サンプリングされているよね!
プロデュースしたのはもちろんDr.Dre。
リリックを書いたのはIce Cubeでした。
同年、N.W.A.名義で「Panic Zone」という4曲入りのEPをリリースします。
さらに「N.W.A.and The Posse」名義でコンピレーションアルバムをリリース。
ちなみにジャケットには11人いますが、本来写るべき人物がいなくて、たまたまそこにいたアルバムに関与していない人物も撮影に参加しています。
1988年に6人編成で伝説のアルバム「Straight Ontta Compton」をリリース。
このアルバムをリリース後すぐにArabian Princeが脱退。
このアルバムが伝説と化した理由は
コンプトンという街のありのままの現実をリポートし、外の世界に発信したことにありました。
アメリカのみならず世界から絶賛されたこのアルバムは半年間で100万枚を売り、Gangsta Rapで初めてプラチナディスクに認定されました。
最終的に2015年の時点で300万枚を売り上げました。
ちなみにN.W.A.の2015年に公開された伝記映画「Straight Ontta Compton」の公開の前後でビルボードチャートに返り咲くという快挙もみせました。
N.W.A.の代表曲でもある
「F*ck The Police」は警官の違法捜査、
罪の無いマイノリティへの暴力を糾弾した過激な曲でした。
その過激なリリックは連邦捜査局つまりFBIから苦情の手紙がくる程でした。
警察はツアーやライブでこの曲をパフォーマンスすることを徹底的に妨げました。
1989年にギャラが少ないとしてIce Cubeが脱退。
1990年に4人体制で「100Miles And Run」という5曲入りのEPをリリース。
1991年に2ndアルバム「N*ggaz4Life(Efil4Zaggin)」をリリース後、Dr.Dreも脱退。
楽曲制作の要を失いN.W.A.は実質的な解散となってしまいます。
1995年にEazy-Eが惜しくも亡くなってしまい、N.W.A.の再結成は難しいと思われていましたが、
Ice Cube主演の映画「Next Friday」のサウンドトラックでEazy-Eの代わりにSnoop Doggを加え、「Chin Check」という曲をN.W.A.名義でリリースします。
ファンの間では「新生N.W.A.」としてまたアルバムをリリースするかと期待されましたが、これ以降N.W.A.のリリースはありませんでした。
2016年にN.W.A.は「ロックの殿堂」入りを果たします。
まとめ
「アメリカの負の遺産」ともいうべきギャング文化はアメリカにとって切っても切れない文化です。
HIP HOPの歴史上、Gangsta Rapは「HIP HOPという文化」の中でも最もパラドックスを生んだサブジャンルでした。
どうであれ、NY主体だったHIP HOPを「他の地域でも十分売れる」という世界線に持って行ったGangsta Rapの功績はデカいと言えます。
今回はGangsta Rapの歴史についての講義でした。